40歳で入れたマネージャーのスイッチ
「川越シェフ」の名前は、すぐにお茶の間に浸透した。だが、先の「800円の水問題」を境に、一転して叩かれる側に回る。世間が一気に冷たい眼差しを送った。まさに四面楚歌。だが、意外にも川越には驚きや絶望はなかったという。
「昔から客観的に自分のことを見ていたからでしょうね。“それはそうだよ、川越さん。こんなスタイルで、しかもあんなことを言えば、嫌われても仕方ないよ”と思ったんです」
自分の発言の思慮の浅さを反省しつつ、川越は表舞台から離れた。言い訳を重ねるのは自分に性に合わなかったからだ。次に川越が選んだのは、裏方の道だった。商品開発のアイディアやコンサルとして、川越の力を必要としている企業はたくさんあった。
「40歳まではプレーヤー。そこからマネージャーのスイッチを入れました」
大事なのは自分が有名になることよりも、おいしい料理をお客さまに提供することではないか。自分が不在でも店が回り、経営が成り立つことが理想のレストランだと思ったのだ。企業からアドバイスを求められたときは、自身の経験をもとに丁寧に伝えた。
「アドバイスの仕方の一つとしては例えば、“あの店のアレが美味しいらしい、あの味が忘れられない”と話題になるような目玉メニューを作りませんか? とお伝えします」
川越がオーナーシェフとして腕を振るっていた代官山のTATSUYA KAWAGOEでは、バーニャカウダがウリだった。
「最初のつかみとして、結構な量できらびやかな盛り付けを目指しました。『代官山にもしも畑があったら』をコンセプトにして、これを食前酒と一緒につまみながら、次の料理を楽しみにしてもらうんですが、これは特に女性から人気をいただきました」
メニューを出す順番もこだわった。
「特に大事にしたのは最初と最後です。レストランの食事は、大切な人と過ごすしていると、おしゃべりが盛り上がってあっという間に時間が経ちます。だから、最初と最後が特に記憶に残るんですね。目指すのは100点ではなく120点。徹底的に満足していただくためには、そういう考えも大事なんです」
表舞台から料理と真剣に向かい合ってきたその自負があった。それを広く伝えようと思った。
「昔はクリエイターになりたいと思っていました。でも、自分が憧れていたのは職人だったのかもしれないって。自分が前に出なくても、料理を食べたお客さんが“美味しいね、誰が作ったんだろう”って話題にしてくれたら幸せだったんですよね」
こうやって裏方として生きていくのも悪くない、そう思うようになっていた。