高級住宅街として人気の二子玉川。かつては風光明媚な景勝地として政財界の著名人たちの別荘が建ち並ぶこの街を激変させた「高島屋」と「ライズ」。二子玉川の発展を「三つのフェーズ」で、東急電鉄株式会社の執行役員の東浦亮典氏が解説する。

※本記事は、東浦亮典:著『私鉄3.0』(ワニブックス刊)より、一部を抜粋編集したものです。

二子玉川ライズによって駅の乗降客が6万人も増えた

田園都市線・大井町線の二子玉川駅はかねてより高い人気を誇っていましたが、第一期(2011年)、第二期(2015年)の2回に分けた駅前大規模再開発事業によって「二子玉川ライズ」という新しい顔が生まれ、その人気はさらに高まりました。

それまで二子玉川にはなかったオフィスビルもでき、楽天本社をはじめとするいくつかの企業が入居しています。確かに以前から世田谷区の住みたい街としての評価は高かったですし、玉川高島屋が日本を代表する素晴らしいショッピングセンターを運営していますので、買い物にも便利な街ではありました。

しかし、「働く」という要素はほとんどなく、朝の通勤ラッシュを終えると、なんとなくのんびりした空気が流れる街でした。それが再開発によって、オフィスへの通勤者とライズのショッピングセンターに来街する人の流れが生まれ、平日休日を問わず朝から夜まで人通りが絶えない街に変貌しました。

二子玉川ライズ開発前の2010年の二子玉川駅の乗降人員が約10万人だったの対して、2017年度の乗降人員は約16万人。私鉄の駅でここまで短期間で乗降人員が増加する例は滅多にありません。

かつて二子玉川は、1907年に開業した通称「玉電」と呼ばれた玉川電気鉄道玉川線(後に東急電鉄に買収される)の終点でした。玉電は二子玉川付近の砂利を採取して都心に輸送することを目的とした電車で「ジャリ電」とも呼ばれていました。1934年に二子橋より下流での砂利採取が全面禁止されてからは、旅客輸送に軸足を移します。

かつての川沿いには料亭が軒を連ねていた

二子玉川の発展の歴史は「三つのフェーズ」に分けて考えることができます。

第1の波は大正から昭和初期にかけて風光明媚(めいび)な観光景勝地として発展した時期です。二子玉川は目の前に一級河川の多摩川が流れ、後背地の国分寺崖線(がいせん)には緑豊かな丘があり、富士山も望める絶景の場所です。

その崖線沿いには政財界の著名人たちの別荘が建ち並び、川沿いには料亭が軒を連ね、目の前で釣れる鮎などを供し、舟遊びをするといった風情のある光景が見られたそうです。

しかし、周辺が宅地化されてくるにつれて建物が増えていきました。また生活排水が多摩川に流れ込み、川が汚れて鮎も釣れなくなると景勝地としての価値は下がり、料亭も廃れてしまいました。

そこに新たな都市住民のためのレジャー施設が必要だということで建設されたのが遊園地でした。1954年には駅名が「二子玉川園駅」に改称され、名実ともに郊外レジャー施設の街として発展します。