日本のプロ野球史に名を刻んだ野村克也氏の訃報に、関係者やファンから悼む声が相次いでいる。勝負事に「もしも」は禁物だが、1961年の日本シリーズと1990年の開幕戦、対巨人戦であった誤審についてのボヤきを振り返る。
※本記事は、野村克也:著『もしものプロ野球論』(ワニブックス刊)より、一部を抜粋編集したものです。
巨人の「劇的な逆転勝利」となった1961年の日本シリーズ
2018(平成30)年からプロ野球にリクエスト制度というのが導入されただろ。前からホームランの判定だけはビデオでやってたけど、新しい制度で適用範囲がだいぶ広がった。
ただ、俺はあれ、好きじゃない。去年(18年)も500回以上使われたらしいけど、ああいうルールに慣れると、闘争心がなくなるというか、野球が悪い意味で優しくなると思う。野球の魅力が一つ失われるよ。
俺たちがやってた時代は、誤審による事件がいろいろあった。特に、日本シリーズのような大舞台で起きたことは、今もよく覚えてる。有名なのが、1961(昭和36)年の南海と巨人の日本シリーズ。球審が円城寺満さんだったので、世間的には「円城寺事件」なんて呼ばれてるようだけどな。
あれは1勝2敗で迎えた4戦目で、試合は3対2でリードしたまま、9回裏の巨人の攻撃を迎えた。そしたら、うちの内野がポロポロやりだして、2アウト満塁になり、バッターは宮本敏雄さん。ハワイ出身の人で、王より先にリポビタンDのCMに出てたりして、人気もあった。たしか、このシリーズでもMVPになっているよ。
で、そのときマウンドにいたのは、スタンカで、キャッチャーは俺。2ストライク1ボールまで追い込んだ後、真ん中低めに落ちる球、俺が「ゴロゾーン」と呼んでるところへ要求したら、ピタっとそこへ来た。キャッチして、よしゲームセットやと思ってマウンドへと向かおうとしたら、円城寺さん、「ボール」言いよる。冗談やろと。
ボールを地面に叩きつけて「どこがボールや!」と詰め寄ったんだけど、判定は変わらん。スタンカもマウンドから突進してきて、手を出すと退場になるので、両手を後ろに組みながら、円城寺さんに猛抗議してた。あとで映像を見たら俺、マスクも地面に叩きつけてたよ。
それでも判定が覆ることはなく、試合が再開されて、宮本さんがライトにヒットを打って逆転サヨナラだよ。巨人にとっては「劇的な逆転勝利」ということだ。
すぐに立ち上がったのは自分のミス
当時、セ・リーグでスタンカみたいなフォークを投げられるピッチャーはいなかった。円城寺さんはセ・リーグの審判なんで、あんな球を普段から見ていないんだよ。中日の杉下(茂)さんが投げてたのは、それより10年くらい前だからな。それでボールに見えたんだろうって、スタンカは後で言っていたけどな。
ただ、俺は「あ、こういうことか」と思ったよ。当時から「巨人戦は相手が10人いる」なんて言われてたからな。結局、そのシリーズは巨人が4勝2敗で日本一になる。「円城寺 あれがボールか 秋の空」なんていう川柳が流行ったりしてな。
ただ、本当いうとね、当時の映像を見ると、俺はあのとき、捕球してすぐに腰を上げちゃってるんだよ、「終わりや」と思って。あれで円城寺さんから、ミットの位置が死角になったんじゃないかと思うんだ。
繰り返すけど、ストライクなのは間違いない。それは確か。だから誤審は誤審だ。ただ、俺が立ち上がったせいで、見えにくかった結果なのかもしれない。だとしたら、俺の未熟さがあったことも確かなんだよ。だからあの後、円城寺さんが世間から叩かれたでしょ。申し訳ないという気持ちはあったよ。
そのことを後年、テレビの企画で、アメリカに戻っていたスタンカにビデオレターみたいな形で伝えてもらったんだよ、「今も反省している」って。そしたら「まったく気にしていない。野球はいろんなことが起こる。捕手が野村さんでよかった」って彼は言ってくれたけどね。
まあ、ビデオ判定ではストライク・ボールの判定は適用されないから、昭和36年に制度があったとしても、あのフォークがストライクに変わることはないけどな。