勝負事に「もしも」は禁物。でもこの人には聞いてみたい。ご存知プロ野球界の伝説、野村克也氏に自身の野球人生が始まった年の「もしも」を聞いてみた。もし、あのとき球団を脅していなかったらきっと解雇されていた…。
※本記事は、野村克也:著『もしものプロ野球論』(ワニブックス刊)より、一部を抜粋編集したものです。
年俸8万4000円からのスタート
テスト生として南海へ入ることができたのは1954(昭和29)年のことだ。契約金はゼロ。ただ、球団職員が出してきた契約書を見たら、給料が「八万四千円」と書いてある。大卒の国家公務員の初任給が8700円だったから、ほぼ10倍だな。これはすごい、さすがプロだ、夢がある世界だと思ったよ。
これで母親に楽をさせてあげられる……そう思って契約書をよく読むと、金額を「年12回に分けて支払う」とある。つまり8万4000円は「月給」じゃなくて「年俸」だったんだな。12で割ったら月7000円だ。一般サラリーマンより安い給料ということだ。しかも、そこから寮費として3000円が引かれ、バットやグローブも自前だった。
寮の食事だって粗末なもんで、米だけは丼で食い放題だけど、おかずは漬物くらいであとは味噌汁。これで練習ができるかと思ったよ。今じゃ考えられないけど、ユニフォームも先輩たちのおさがりでサイズも合ってない。昭和29年の南海はそんなところだった。
ちなみに、日本で初めての1億円プレーヤーは落合博満ということになってるけど、プレーイングマネージャーということでよければ、最初に1億稼いだのは俺なんだよ。兼任監督としてリーグ優勝した73(昭和48)年だったと思う。あの頃は長嶋が年俸日本一と報じられてたんだけど、本当は俺だったんだ。現金支給だった時代に、ほかの選手に目立たないよう、小切手でもらったのを覚えているよ。
とはいえ、そんな身分になれるのはまだ遠い先。早くレギュラーになって稼ぐしかない。ところがある日、おかしなことに気づいた。テストに合格したのは俺も含めて7人だったんだけど、そのうち4人がキャッチャーなんだ。しかも4人とも地方出身者。
“カベ”要員として採用された
これは変だと思い、ある日、二軍のキャプテンに聞いてみたら、お前たちは“カベ”として採用されたと言いにくそうに教えてくれた。“カベ”というのはブルペンキャッチャーのこと。なんのことはない、われわれは戦力として期待されて入ったわけじゃなく、ピッチャーの投球練習の相手として、月7000円で雇われただけだったんだな。
それで、そんな地味な仕事は都会出身の子は嫌がるから、右も左もわからない地方から来た俺たちが、4人も選ばれたというわけだ。騙されたようなもんだよ。
しかも、ブルペンキャッチャーから一軍へ上がれた選手なんて今までいないっていうんだ。愕然としたね。京都へ帰って仕事を探そうかと本気で思ったよ。ただ、気を取り直して「なんとか3年やってみるか」と。それでダメならあきらめるしかないと考え直した。ところが使ってもらえないんだよ。特にキャッチャーとしてね。
“カベ”として一軍に帯同するんだけど、たまに代打要因が足りないようなときに、「おまえ、行って三振してこい」とか言われて出たりするくらいで。当時は登録制度がなかったからな。おおらかな野球だったわけだけど、打撃練習もしないで打てるわけがない。その年は11打数0安打5三振。出場試合は9試合。まあ、散々だった。