明治維新以降の国家と皇室をめぐる百五十年にわたる議論から、日本国憲法体制において初めて皇位を引き継がれた上皇陛下が、自由と民主主義を奉じる日本を根底から支えるために、いかなる戦いを繰り広げてこられたのか。まずは「憲法」と「憲法典」の違いを理解しなくてはならないと、近現代史研究家の江崎道朗氏は言います。
日本国憲法より先に皇室があった
皇室の伝統を守っていくうえで、憲法解釈や運用が重要なのだが、政府も宮内庁も、東京大学の宮澤憲法学と、その影響を受けた内閣法制局の言いなりになっていく。
この危険な動きを察知されていた方がいた。天皇陛下である。陛下は皇太子時代に、憲法の解釈・運用について、専門的な研究をされていたのである。
天皇陛下は、日本国憲法下で即位された天皇である。如何に不備な憲法であれ、また制定過程が如何なるものであれ、帝国憲法がそうであったように、日本国憲法も、時の内閣の全閣僚の副署と、天皇の御名御璽によって成立した。
上皇陛下は「日本国憲法を守る」ことを言われるときには必ず、それと同時に「国民の幸せを念頭におき、たゆまずに天皇の道を進んでいらっしゃった昭和天皇をはじめとする、これまでの天皇に思いをいたし」「長い天皇の歴史を振り返り」「長い皇室の歴史を念頭に置き」というように、昭和天皇の御心や皇室の歴史に触れられている。
象徴とは何かということを語られるときに、必ず歴史に言及されているのと同様、日本国憲法に触れる際にも、必ず歴史に言及されていることは、上皇陛下のお言葉を理解するために見落としてはならない重要なポイントだ。
上皇陛下は、日本国憲法の条文は踏まえるのだが、条文を解釈するための立脚点として「長い皇室の歴史」があることを、何度も示されているのである。
天皇と日本国憲法の関係について、葦津珍彦(あしづよしひこ)氏は次のように述べている。
日本国憲法は、象徴の機能が必要なることを考へて「天皇」なる機関を設けたのではない。天皇は議会、政府、裁判所の国家機関のように、憲法によりて生み出されたのではない。その点では「国民」と同じく、憲法に先行し、立憲の前提として現存したものである。(中略)
憲法によって変化したのは天皇と国家権力との関係にすぎないのであって、天皇そのものの本質に変化があったのではない。
[『土民のことば』(葦津珍彦:著 kindle版 葦津事務所)より]
日本国憲法が「天皇制」を作ったのではない。日本国憲法より先に皇室があったのだ。
憲政史家の倉山満氏がよく指摘しているように「憲法」という言葉は本来、その国の歴史や伝統や文化に則った国柄そのものを指す。一方、日本国憲法や帝国憲法のような成文憲法の条文のことは、正確には「憲法典」という。
天皇陛下のお言葉や、葦津氏・井手氏の議論を理解するには「憲法」と「憲法典」の違いを知って、きちんと区別することが必要だ。
「憲法典」イコール「憲法」ではない。「憲法典」である条文を解釈するためには、その国の歴史や国柄を踏まえる必要があるのだ。