歴史を踏まえるか、それとも過去と断絶するか

歴史に立脚せず、日本国憲法という「憲法典」の条文だけが、全てであるかのように解釈したらどうなるか。

まさにそれが、宮澤憲法学以来、日本の憲法学界やメディアで起こってきたことだ。内閣法制局第一部長を務めた井手成三氏は次のように慨嘆している。

日本国憲法は第一章を天皇の章とし、第一条において「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定している。

その信奉する観念的な国民主権主義を絶対視し、天皇制を日本国の体制から出来るだけ稀薄にすることをもって進歩主義的な考えの持ち主であると考えている学者たちは、この「日本国民の総意に基く」を解釈して、天皇制は新憲法により(憲法前文に「日本国民は……ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とある)、国民の総意によって設定されたものだ、従って将来、日本国民の総意がかわれば、天皇制廃止も可能だというような飛んでもない方向へ結論づける(たとえば、前掲注解日本国憲法[法学協会:編『注解日本国憲法』上巻 有斐閣/1953年]は「天皇の地位は、主権者たる国民の意思による根拠づけによってはじめて、象徴としての存在が認容されていることを意味するものであり、そのような法的根拠を失えば、天皇の地位は変動せざるをえないのである」と解説している)。

天皇制そのものが、新憲法の制定において、にわかに発案され、制設されたなどと解することは常識外れである。
[『じゅん刊世界と日本』(1973年10月15日号)より]

では、第一条を歴史に立脚して解釈するとどうなるか。井手氏はこう続けている。

憲法第一条の「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」は、天皇が日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴たることを創設する国民の総意に基づくというのではなく、天皇が日本国の象徴であり日本国民統合の象徴たることを確認する国民の総意に基づくということなのである。

日本国の象徴であり日本国民統合の象徴たることを本質として連綿現代に至った天皇制を確認し新憲法においても当然これを護持する。これが国民全体の厳然たる総意であるとして、この第一条の条文となったというべきである。わが国において、天皇が常に日本国の象徴的地位にあり、日本国民統合の中心であることは(時代時代により、天皇の統治作用における権能、職能には変遷はあっても)、歴史的にゆるぎのない事実である。この天皇制を古来不文法的にも相承け、相継いで来た国の体制についての国民の総意を確認して、新憲法は第一条に明文化したものである。〔同前、太字強調は原文のまま〕

▲『日本国憲法』 イメージ:PIXTA

同じ条文でも、歴史を踏まえるか、それとも過去と断絶するかで、これほど解釈が変わってくるのだ。上皇陛下や天皇陛下が日本国憲法に言及されるとき、必ず歴史に触れられていることは、極めて重大な意味を持っている。

※本記事は、江崎道朗著『天皇家 百五十年の戦い』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。