昭和天皇の御心を承け継ぐ道を選ばれた

上皇陛下の毅然とした御対応とは対照的に、昭和五十年代から政府は、中国・韓国や国内のサヨク団体に迎合し、戦前・戦後の断絶を積極的に容認するばかりか、戦前までの日本の政治的伝統を否定していくようになっていく。

▲今も皇族による参拝が途絶えている靖國神社(東京都千代田区) 出典:PIXTA

具体的には、昭和57年に第一次教科書事件が起き、中国や韓国の要望を受けて歴史教科書に「侵略」や「加害の歴史」を追加するようになり、昭和60年代に入ると中曽根総理の靖国神社「公式参拝」から一転しての参拝自粛、第二次教科書事件、歴史認識問題に関する発言による閣僚更迭、政府後援による建国記念の日式典からの神武天皇や「天皇陛下万歳」の排除が続く。

ある意味、昭和天皇の戦争責任を容認するかのような政府・自民党の迷走の中で、昭和天皇が崩御された昭和六十四年一月七日から一年間の諒闇(服喪)の間に、上皇陛下は次のような御製をお詠みになった。

殯宮伺候
ありし日のみ顔まぶたに浮かべつつ暗きあらきの宮にはべりぬ
父君をあらきの宮に思ひつつ日はたちゆきて梅は咲き満つ

一年祭近付きて
父君をしのび務むる日々たちてはや一年の暮れ近付きぬ

陛下は、このように昭和天皇を深く追慕される御心を示され続けたのだった。平成元年八月四日、天皇皇后両陛下の平成初めての記者会見で、記者会は昭和天皇の戦争責任について執拗に問い質している。

▲昭和天皇の陵墓「武蔵野陵」 出典:ウィキメディア・コモンズ

昭和天皇の戦争責任論について、それを否定するにしろ、あるいは肯定するにしろ、何らかの言質を新天皇から取ろうと食い下がる記者会に対して、上皇陛下は、昭和天皇が「ご苦労が多かった」という追慕の心だけを示された。

陛下はこうしたお言葉で、戦争責任論も含めて昭和天皇が背負って来られたものを、御自身から切り離すことなく、一切引き受けられたのである。

昭和天皇の戦争責任論が再燃しても、政府がまったく頼りにならない中で「昭和天皇の御心を承け継ぐ」と宣言することは、戦争責任という問題を承け継ぐことにもなる。

引き受けるのと、切り離すのと、どちらが楽かと言えば、もちろん切り離す方が楽なのだ。ドイツのワイツゼッカー大統領のように「時代が変わったのだから、私には戦争責任は関係ありません」というやり方もあり得た。

だが、上皇陛下は安易な道を選ばれなかった。

※本記事は、江崎道朗:著『天皇家 百五十年の戦い』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。