「ライオンズを存続させたい」その思いが一致した

プロ野球ファンのパワーが結集するのを目の当たりにして、私は何かを変えていかなくてはいけないと思うようになっていました。

私にフロント入りの可能性を提示した球団も、たぶん私と同じように球団を改革するためのアクションを起こそうとしたのではないでしょうか。選手たちの意見をフロントに橋渡しする役目を、私に期待したのだと思います。

▲打ち合わせ中の筆者

さて、こうして球団職員になった私は、まず営業部に新たに立ち上げられた「ファンサービスチーム」に配属されました。今となっては信じられないことですが、当時のプロ野球界には「ファンサービス」というものがほとんど、いや、まったくありませんでした。

今、野球の試合を観に行けば、各球場とも工夫をこらして、試合以外のさまざまな楽しみがちりばめられています。でもその頃は、ただ時間になれば開門し、時間になれば試合が始まる。それだけでした。

私たちは、そんな状態からひとつひとつ手作りでファンサービスを充実させていったのですが、当初はまだ何をやったらいいのか、まったくわかっていませんでした。そこで、選手をやめたばかりで、またファンの間ではある程度名前が浸透していた私が開門直後からゲートに立って、ずーっとサインをしまくっていました。これが西武ライオンズのファンサービス改革の第一歩となったかもしれません。

ところで、こうして球団職員になった私ですが、当初の所属は「株式会社コクド」でした。当時、ライオンズ球団には「球団職員ひと筋」という職員がおらず、西武グループ各社の社員が球団に出向する形をとっていたのです。

そのため、私はライオンズの親会社でもあったコクドから球団に出向していたのですが、それが元となって、後々まったく想像していなかった道を歩むことになりました。

『球団職員の世界』は次回2/14(金)更新予定です、お楽しみに。