Jリーグ、合併構想。野球界に焦りが…
当時も今も現役引退した選手がフロントの仕事をするのは、珍しいほうかと思います。とはいえ、私に球団職員としての適性があると判断して抜擢したとか、そういうことではなく、「タイミング」がピッタリ合ったのだと思っています。
その頃の野球界は「焦り」のまっただ中にありました。1993年にスタートしたサッカーJリーグは、「日本サッカーの水準向上及びサッカーの普及促進」など、崇高な理念を掲げて多くの人たちから支持されました。そして、プロリーグ発足により急激に競技レベルを向上させたサッカー日本代表は、1998年に悲願のワールドカップ初出場を果たします。「事実上の国技」とまでいわれてきた野球は、完全に押されていました。
また、バブル崩壊後の日本の経済界も、外資の進出などにより大きく変わってきていました。従来の日本型経営を見直さなければならなくなり、それが多少なりとも球団経営に影響を与えていました。
決定的だったのが、私が引退する1年前の2004年の出来事です。この年、プロ野球界は揺れに揺れました。大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブが合併し、近鉄が事実上消滅。さらにもう2球団を合併させて「10球団1リーグ制」を模索しているのが明らかになりました。
それに対して、古田敦也選手会長が陣頭指揮を執って選手会が立ち上がり、日本プロ野球史上初のストライキを敢行。その結果、東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生し、12球団の2リーグ制が維持されました。
私は「ライオンズがなくなってしまうのでは」という不安を感じていました。当時のライオンズには松井稼頭央や松坂大輔といった人気と実力を兼ね備えた選手がいて、1982年から二十数年連続でAクラスをキープする常勝球団でした。にもかかわらず、球場は空席が目立っている状況だったからです。