戦後体制をルーズベルトはどう読み間違えたか
1920年代においては、日本国憲法第9条の下敷きになったパリ不戦条約が典型ですが、国際主義で平和は守れると本気で考えられていました。
『我が闘争』に記載されたヒトラーの哲学はおそろしかったのですが、ヒトラーは、知的な人には穏やかに好感を与えるような話し方をする術を心得ていましたので、各国首脳は好感を持ちました。メディアや芸術家を活用した効果的な宣伝の天才でした。
そんなヒトラーに騙されて、ヒトラーは第1次世界大戦の過酷な和平条件を対等のものにしたいだけ、という理解が広く存在したのです。ナチスのユダヤ人ホロコーストなどは1942年以降の話であって、戦争が始まってからのことです。
戦後の世界についても、ルーズベルト大統領が考えていた構想は、東西冷戦や中国の台頭というその後の戦後史を知る現代人にとっては、ほとんど信じられない夢物語でした。スターリンが良き連合軍の一員として、イギリスと協調してヨーロッパの民主主義と秩序を守ってくれる、アジアは蔣介石を応援すれば安定する。植民地はゆるやかに自立して、旧宗主国の援助も受けながら発展していくだろうと思っていたわけです。
しかし共産主義運動は、プロレタリア独裁と世界革命を目指すのが譲れない基本方針だし、ロシアの伝統的な国益からスターリンが自由なことも自明の理でした。蔣介石と国民党のダメさや毛沢東が侮れないことも新しい発見でなかったのです。
しかし、ルーズベルトは騙されました。コミンテルンの洗脳工作が行き渡っていたともいえます。私も含めて、少年時代に赤狩り(レッド・パージ)で多くの人がスパイの濡れ衣を着せられたと教えられましたが、実は多くが本当のスパイだったことが、ペレストロイカののち明らかになり、朝日新聞記者もからんだゾルゲ事件が、第2次世界大戦の帰趨(きすう)を決めるほどの意味を持つものだったこともロシアでは常識ですが、日本のマスコミは認めません。
マッカーサーは、アメリカがずっと唯一の核保有国であり続けると思い、沖縄を日本に返還する気などなく、中国は自由主義国家となると思えばこそ、日本に憲法第9条を押しつけて、あとで後悔することになりました。
馬鹿げたことですが、日本が講和条約を結んで独立するためには、自衛隊の前身が存在し、日米安保条約での米軍駐留継続と台湾の国民政府を中国政府として認めることが、米国議会が批准する条件だったのです。そういう意味では「平和憲法体制」が現実に存在したことはついぞないのです。
※本記事は、八幡和郎:著『アメリカ大統領史100の真実と嘘』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。