日本統治が書き言葉としての朝鮮語を創った

福沢諭吉の弟子で、備後福山出身の井上角五郎という人がいました。朝鮮政府の顧問になって漢文での官報の刊行を始めましたが、やがて漢字ハングル交じり文を日本語を参考にして考案し、1886年に『漢城周報』を発行しました。

▲井上角五郎 出典:ウィキメディア・コモンズ

朝鮮では正式文書は漢文で、ハングル(諺文〈オンモン〉)の使用は補助的なものに留まっていました。このため、井上はハングルの活字をつくるために、日本から職人を招聘しなくてはならなかったほどです。最近ではハングルだけで表記されるようになりましたが、漢語をハングルで表記しているだけですから、いまも日本語に酷似しています。

ハングルは1446年に、李氏朝鮮の名君・世宗が「訓民正音」の名で公布したのですが、中国文明を絶対視する保守派の抵抗で普及が進まなかったのです。

日本統治下では、小学校では原則としては朝鮮語で教育が行われたので、それまで、あまり普及していなかったハングルの使用が急速に進みました。朝鮮総督府が、1912年に初めて朝鮮語の正書法である普通学校用諺文綴字(ていじ)法を、1930年には諺文綴字法を制定し、きちんとしたかたちでハングルが使えるようになりました。

こうした意味で、日本統治が韓国の人々から言語を奪ったどころか、書き言葉としての朝鮮語は日本人が主導し、日本語の強い影響のもとで成立したと言っても過言でないのです。

教育は日本統治の積極的な遺産として、もっとも評価されるべきものです。日韓併合以降、急速に普及し、終戦時には国民学校への就学率が男子76パーセント、女子33パーセントに達していました。内地に比べて半世紀遅れですが、明治維新と日韓併合から数えれば同じペースでの着実な進展でした。

また李氏朝鮮では、民衆文化のようなものはあまり評価されていなかったので、それに日を当てたのは柳宗悦など日本人の民芸運動家でした。さらに仏教も抑圧され、寺院も荒れていたのを復興していったのは朝鮮総督府の功績です。ともかく、総督府の朝鮮伝統文化の再評価、保全や発展に尽くした功績は驚くべきものです。

▲景福宮 出典:PIXTA

景福宮も、その一部に総督府が建てられましたが、江戸城跡も皇居や官庁街になりましたし、各地の城跡も県庁などに使われています。景福宮の保全は日本のお城より手厚くされています。また、景福宮前の素晴らしいメインストリートも、総督府が整備したものですし、むしろ韓国の人の歓心を買うために日本本土が犠牲にされた感すらあります。

※本記事は、八幡和郎:著『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。