同じウイグルでも南北で異なる文化

父はウイグルの北にあるイリの出身だった。イリはロシアに近い国境の町であるため、ロシアおよび西洋世界の影響を受けやすい町として知られる。ウイグルで一番開放的で文明的な町とも言われている。

父はイリで小中高一貫の名門校に通い、高校卒業してから当時のイリのウイグル人エリートたちと同じようにソ連に留学し、モスクワの工業大学で鉱山学部で学んだ。そして卒業と同時にウルムチに戻り、今度は中国の西安にある工業大学でさらに2年間勉強した。

そのおかげで、中国語とロシア語が堪能だった。そして、中国共産党によって指名され、今の職場で働くことになったらしい。

母はウイグルの南にある無花果(いちじく)で有名な町、アトゥシで生まれた。そこは歴史が非常に古く、ウイグルの近代史において有名人が多く出る場所でもあった。母はこの地で代々と続いてきた鍛冶屋一族の令嬢であったという。

地元の高校を卒業した母は、ウルムチにある新疆大学の哲学科に進んだ。私は父の実家をさほど知らないが、母の実家の鍛冶屋は私の成長に大きな影響を与えている。西安の大学を終えウルムチに戻った父は、新疆大学に講演に行き、そこで新疆大学の学生だった母と知り合い、2人は結婚したそうだ。

▲新疆大学南キャンパス図書館 出典:ウィキメディア・コモンズ

 父の出身地であるウイグル最北端のイリが、ウイグルでもっとも西洋文化の影響を受けた開かれた町であるのに対し、母の育ったアトゥシは、正反対の最南でウイグル色が最も濃い、比較的西洋文明に抵抗感がある敬虔なイスラーム教徒の町である。

ウイグルは昔から縦の交流関係が盛んであると言われていて、ウイグルの人々は北と南で互いの文化に対して憧れを抱いている。それは不思議なことに今も昔と全く変わらない。

互いの良いところを勉強し、生活を豊かにすることに徹している素敵な関係であり、その関係は奥深く面白いものだ。北と南の互いの良い文化を吸い込む関係は、ウイグル人社会の発展の一因であることは言うまでもない。

これは今に始まったことではない。歴史的にもそうであったことを、私は中央アジア学者の間野英二先生の著書『中央アジアの歴史』を読んで知った。父と母の結婚にも、このような北と南のウイグル人の「互いへの憧れ」的なものが大きかったのではないかと私は推測している。

共産党員でもあり敬虔なムスリムでもあった両親

ウイグルには豊富な地下資源(石油、石炭、天然ガスなど)がたくさん埋蔵されている。中国最大の地下資源の宝庫としても知られているが、父はこの地下資源を探すエンジニアとして働いていた。家を空けることも多く、地方に長期間行くこともしばしばあった。仕事が大好きな様子だった。

母は新疆大学の哲学部を卒業し、そのまま大学に残って講師として働いていた。哲学と言っても、ほとんどマルクスとレーニンの教えを極めることを専門としたようであった。

当時の中国で哲学と言えば、おそらくマルクスとエンゲルスやレーニンを習うのが王道とされた。他の西洋哲学は影も形もなく、あったとしてもブルジョワの腐った思想の産物と否定されていた。家には、マルクスやエンゲルスとレーニンのウイグル語に訳された全集を始め、毛沢東全集や語録などが並べられていた。母も中国語を話すことができ、中国の本も何不自由なく読んでいた。

父と母は共産党員だったが、家では共産党と政治の話を、少なくとも私の目の前ではしたことがなかった。しかし、彼らは敬虔なムスリムであったことは確かである。私が家のなかで食べ物をこぼすと、父は丁寧にそれを掃除しながら、私にこう言った。

「食べ物を粗末にすることは、アッラーが最も望まれないことだ。一滴も一粒も粗末にしてはならぬ」

父は、金曜日の朝やイスラームの祝日などに近くのジャーミー(モスク)に行って、集団礼拝に参加していた。毎年のラマダンもきっちりこなした。母は毎週金曜日に、先祖を供養する食べ物を作った。イスラームの教えは、もはや彼らの価値観や思想の一部になっていて、母と父の血と思想のなかに、ムスリムとしての本質的な優しさや正義のようなものが常にあるのを私は感じていた。

「新疆ウイグル自治区」という特殊な環境のなかでは、彼らは共産党員であることを形式として受け止め、多くは考えないようにしていたと思う。また、あの時代はそのようなことが許される社会的雰囲気があった。中国がまだそれを許さないほどの力と経済力を携えていなかったからである。

※本記事は、ムカイダイス:著『在日ウイグル人が明かす ウイグル・ジェノサイド』(ハート出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。