異なる民族の子どもたちと遊んだ幼少期
家を与えられると同時に、文化大革命のときに4分の1しか支払われてなかった10年分の給料の差額が支払われたため、私は比較的裕福な家庭に育った。家には、親が石炭鉱山で働いていた時代から私の面倒を見てくれている乳母のウイグル人中年女性と、母の遠い親戚のアワグリお姉さんがいた。
アワグリお姉さんは家事や料理を手伝ってくれていた。母は毎月のように彼女の実家にお金を送り、農家である彼女の実家を現金収入で支えていた。母は彼女の手に職をつけてあげたいと裁縫の学校にも通わせていた。乳母もアワグリお姉さんも、とても優しい笑顔の絶えない人だった。
アワグリお姉さんは裁縫学校の実習作品として、美しいワンピースやコート、帽子などを私のために作ってくれた。生地を選ぶために、母とアワグリお姉さんに連れられてウルムチの大バザールまでよく行ったものだ。大バザールは人であふれかえって、活気と生命力に満ちていた。
アワグリお姉さんは、いつも「ここでは鶏のミルク以外なんでも買える」と大げさな表現で、その品物の豊富さを褒めていた。
父は当時のウイグル人のなかでは珍しくないが、漢民族にとっては珍しい学歴の持ち主で、ソ連の大学に留学して学位と資格を取っていた。
当時の中国の李鵬首相も、同じくエンジニアとしての資格をモスクワで取っており、このことが評価された父は、ウイグル人では珍しく局長クラスの幹部だったため、北京からこの管理局に直接派遣された漢民族の幹部と同様に一番良いマンションを与えられていた。当時のウルムチでは、このエネルギー管理局の住居マンションは、みんなの憧れの的であったと思う。
旧ソ連の建築を模倣して建てられたこの建物は、美しくて快適だった。床暖房に冬には温水と、夏にはウルムチの冷たい雪解け水が循環していて、季節問わずに快適だった。部屋数も多かった。家には、父がロシア留学時代に買ってきた、いくつかの美しい絵と、母が好きで育てていたゴムの木が植えられた大きな植木鉢が置いてあり、私はその雰囲気が大好きだった。
私はよく管理局の庭の花園で遊んでいた。乳母は遊ぶ私を見守っていた。いつ見ても彼女が私から目を離していないことが印象的だった。その優しい眼差しを今でも思い出す。
同じ年頃の漢民族の子どもが3人、それにカザフ人・タタール人・モンゴル人の子どもたちと一緒に遊んだ。みんな自分の母国語で相手に話しかけていた。またそれがごく自然のことであった。
ウルムチ生まれの人の特徴は、おそらく自分の母国語以外の言語と人種に対して、ごく自然に接することができることだろう。政治的な打算があった時代でも、子どもたちが違う人種、異なる言語と当たり前に接することができる、即ち今で言う国際感覚を生まれながら自然に身につけたことは、ウルムチ生まれの14の「民族」の特権で特徴だったように思う。
管理局のなかだけでなく、当時のウルムチを歩くだけで、少なくとも4~5種類の言語と異なる顔が目と耳に入ったものだ。日常のなかで、さまざまな言語と違う顔に出会いながら、それを当たり前に生きる人々が住むウルムチほど、不思議で面白い町を私はまだ知らない。