ウイグルの人々の暮らし、あるいは社会と文化の歩みを知るためには、その時代の中国の政治を知らなければならない。なぜなら、中国の政治的な空気によって、ウイグルの様子が刻一刻と変わるためである。中国の歴史と政治の歩みをウイグル社会に照らし合わせて知るのは、ウイグルを理解するうえで必要不可欠な条件である。従って、まず当時の中国の政治状況について述べることにする。
中国政府が打ち出した「民族文化復興政策」
私が幼少期を過ごした1980年代は、文化大革命がちょうど終わり、疲弊し切った社会と“文革”が残した傷跡を、人々が社会的に心理的にどのように癒していくべきか、政治の顔色をうかがいながら模索していく最中でもあった。漢民族社会と同じように、あるいはそれ以上にウイグル人社会にも、文革の傷跡が甚だしく残っていた。
中国政府は、1980年代のはじめに「民族文化復興政策」を打ち出した。
この政策によって、それまで強いられた「中華民族の文字統一政策、つまり漢民族は漢字を捨てピンインを使う。少数民族は自分たちの文字を捨てピンインを使う。まずは同じ文字で全国を統一する」というスローガンが廃止された。これにより、ウイグルアラビア文字が復活した。
この時代は、入植される漢民族に対しても、彼らがウイグル(新疆)に来る前にウイグル人を始めとするムスリムの「少数民族」との摩擦を避けるように、イスラームの生活様式や考え方を尊重するように「新疆教育」が徹底的に行われた。これは中国の「少数民族政策」における、非常に緩やかな一つの黄金時代と言われる時代でもあった。
私が子どものころは、まさにこのような極めて珍しい「平和」な時代で、少なくとも一時的、そして表面的だったかもしれないが、平和で静かな時間のなかで楽しく過ごしていた。
「国家エネルギー省新疆管理局」は、北京から来た高級幹部の漢民族が7割、ウイグル人をはじめカザフ人・モンゴル人・回族・キルギス人・ウズベク人・タジク人といった他民族が3割ほどだった。
この重点的な政府機関は、あくまでウイグルのエネルギーを対象としているのにもかかわらず「民族政策黄金時代」における「新疆ウイグル自治区」であっても、やはり職場においては、ウイグル人を始めとする、この地の主であったテュルク系の人々の比率が、非常に少数であったことは忘れないでいただきたい。
“民族文化復興政策”に安堵していたウイグル人
1980年代には、中国の重要な政策である「一人っ子」政策方針が打ち出されたが、ウイグル人を含むいわゆる少数民族には、2人までという「優遇政策」が採られた。政策は始まったばかりで、ウイグル人社会にはその悲惨な結果が表に現れてはいない時期でもあった。
漢民族側は、この時期からウイグル人に対して「なぜ彼らばかり政府に優遇されるのか」と腹を立て、ウイグル人に対する鬱憤を腹の底に溜めていたようだった。彼らは決して、もともと増え過ぎているのが漢民族自身であるのに、その犠牲を人口が少ないウイグル人が担わされていることの理不尽さを考えようともしなかった。
一方、ウイグル人はウイグル人で、1人を産んで4年後にもう1人を産むべきであると決め込まれた「優遇政策」について、心のどこかにおかしさを感じていた。
この「計画出産政策」は、医療が遅れていて、子どもはアッラーからの授かりものであるとする、イスラーム教徒のウイグル人には適しない政策であった。
ある新疆大学の学者は、ウイグル人の仲間内で「1949年からウイグル人の人口が増えていないにもかかわらず、計画出産政策を実施するのはおかしい。これはウイグル人を絶滅させる陰謀の始まりだ。自治権を使ってこの政策を拒否すべきである。ウイグルは中国に石油や石炭、天然ガスをあげている。生産建設兵団も中国の軍隊もウイグルに住まわせて、核実験もウイグルの地で行っている。
多大な犠牲を払っているのにもかかわらず、このような計画出産政策を強いられることは、私たちウイグル人を絶滅させる狙いがある。自治区としての権利はもはや見せかけのものだ。民族団結などは嘘だ」と講演を繰り返していたことが、父や母の間で密かに話されていたのを盗み聞きしたことだけ覚えている。
しかし文革が終わり、冤罪となったウイグルの知識人の職が回復され、奪われた財産や家も戻され、ウイグル語やウイグル語教育が復活し、市場経済も回復していた。
当時のウイグル人は、新疆大学のウイグル人教授の講演内容が示す未来を案じつつも、目の前の民族文化復興政策に安堵して喜んでいたようでもあった。ウイグル人への計画出産政策も実施されたばかりで、その悲惨な結果が表に現れるまでの、しばらくの間の平静な時期でもあった。
※本記事は、ムカイダイス:著『在日ウイグル人が明かす ウイグル・ジェノサイド』(ハート出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。