漢民族が入植し状況が一変したマハッラ

私がギュルトペ・マハッラで過ごしていた期間は、ここに漢民族は一人もいなかった。マハッラの人も、漢民族を見たことさえなかった人がほとんどだった。

しかし、私が中学一年生の夏休みに行ったときには状況が一変していた。ギュルトペ・マハッラの町長が、なんと河南省から来た漢民族に代わっていたのだ。彼の親族と側近を含め20人の漢民族が、役場の近くに住むようになっていた。

母の実家である鍛冶屋は、2010年に何百年もの職人の歴史に幕を閉じ、今はもうない。後継ぎがいないのが一因と表面的に言われているが、ウイグルが中国に組み込まれ、その制度の犠牲になった最も鮮明な悲劇的な例でもある。

一族が盛んだった時期は、ウイグル人の家庭では農業用の馬と交通用の馬を何頭か所有していた。馬は蹄鉄を打って初めて使いものになると言われるほど、馬の蹄鉄とその修理は鍛冶屋一族の主な仕事であった。

▲馬の蹄鉄 イメージ:PIXTA

しかし、1990年代からウイグル人が所有する馬の数は劇的に減ったのである。その原因は、馬に与える餌としてのウマゴヤシ畑に使う水が圧倒的に足りなくなった現状から始まっていた。

1990年代後半からウイグルの南の村で慢性的に水不足が発生し、農作物や果樹園用の水、そして飲み水までもが不足した。たくさんのウマゴヤシ畑が枯れ、馬に与える餌がなくなり、たくさんの人々が馬を飼うのを辞めざるを得なくなった。村人の間では、水の奪い合いで争いが起きて、昔のような団結した平和な暮らしがなくなっていた。

マハッラの外れに大量の漢民族が住み込み、マハッラの人々の畑が強制的に彼らに与えられた。マハッラの外れに住む一家が襲われ、奥さんがレイプされ殺され、旦那が殺される事件までもが起きた。政府が生産建設兵団の牢屋から逃げた3人の悪質な漢民族の写真を、マハッラに貼ったばかりのころではあったが、犯人は未だわかっていない。

私はその後、上海の大学に入った。大学生のときに、漢民族のクラスメートの女の子たちを連れて村に行った。しかし、かつての女は家事と刺繍に励み、男は鍛冶屋で火花を散らかして真っ赤な鉄を好きな形に打っていた賑やかな雰囲気はなく、すべてが色あせ、すべてが古びて寂れていた。

日本に来てから、ウイグルに置かれた「生産建設兵団」の位置を地図で見たときに、すべてが明らかになった。水源と土地が良い場所には、すべて生産建設兵団が置かれていた。

また全国から犯罪者や娼婦、そして退役軍人が生産建設兵団の母体として入植されていることを知ったとき、あの一家殺しの残虐な事件だけではなく、ウイグルで起きたさまざまな衝突の本質が見えてきたのだった。

▲新疆生産建設兵団第8師団150団12連部 出典:ウィキメディア・コモンズ

※本記事は、ムカイダイス:著『在日ウイグル人が明かす ウイグル・ジェノサイド』(ハート出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。