信長の正統後継者にまさかの事態

なぜなら信長さまには、信忠さまという立派な後継者がおられたからでございます。

信長さまは、斎藤道三さまのご息女でおられる帰蝶さまと天文17年(1548年)に結婚されました。その時、信長さま御年15歳、帰蝶さま14歳でございました。

道三さまは、弘治2年(1556年)に長男の義龍さまと戦って亡くなられ、その翌年に奇妙丸信忠さまが生まれておられます。道三さまが亡くなられるまで、信長さまは側室を置かれることをおそらく遠慮されていたということでございましょう。

信長さまは、それはもうたいそう大事にされていた6歳年上の吉乃さまの忘れ形見であり、ご長男である信忠さまを、奥方である帰蝶さまのもとで小さいころから後継者として丁寧に育てられました。正室である帰蝶さまのお顔を立てられて、慈しまれるほど大切なお子さまなのでございましょう。

そのうえ、争いのたねが起きないように、次男の信雄さま、三男の信孝さまを他家に養子にだされ、家督も天正4年(1576年)に譲られたほどなのでございます。

信忠さまも特別に目立ちはしないものの、御曹司としては申し分なく、家臣たちの評判も上々でございました。信長さまの不興を被ったのは、能を好み過ぎて、弟たちと一緒に楽しんだりして怒られ、能の道具を棄てさせられたりしたときくらいでございましょう。

ですから、信長さまが亡くなられても、秀吉は信忠さまにお仕えするつもりでございましたし、良い関係でもありました。

『武功夜話』という、伊勢湾台風のときに旧家から出てきた、江戸時代に先祖からの伝承をまとめた軍記物がございまして、本物だとか偽書だとか議論がされておりますが、そこには、秀吉が信長さまへ仕官するときに、吉乃さまに上手に色っぽい話などして取り入ってきっかけをつかんだと書いてございます。

そんな話は秀吉から聞いたことはありませんが、吉乃さまの実家である生駒家は、天下を取るまでの秀吉の家老格だった蜂須賀小六などと一緒に、木曽川の川筋を地盤とする武装運送業者の仲間でした。

そういう意味でも、生駒家の方と藤吉郎は親しい関係でございましたし、そのことが、のちに起きる信雄さまと信孝さまとの争いで、やはり吉乃さまの息子である信雄さま側についた理由でもありますが……。そのあたりは、またお話いたします。

ところが、本能寺の変では信長さまだけでなく、信忠さまも思いもかけず一緒に亡くなられてしまったので、それは秀吉にとってもう青天の霹靂(へきれき)でございました。

▲復元された本能寺 出典:PIXTA

信忠さまは、堺に徳川家康さまの案内で一緒に行くことになって、5月19日から家康さまと京都見物をされておられました。

ところが27日になって、信長さまが安土を発って京に向かうと聞いた信忠さまは、予定を変更して京に留まり、29日に京で信長さまを迎えられたのでございます。

そして翌日の6月1日には、信長さまは博多の今井宗久という商人を迎えて茶会を催されました。天下の名物を勢揃いさせたものだということでございます。そして、その夜は本能寺で遅くまで父子で語り合われ、そのあと信忠さまは宿舎の妙覚寺に戻られたのです。

▲「楽しみにしてたのに出てこないなんて…」 イラスト:ウッケツハルコ
※ 当時の女性の名前は正確なところはわからないことが多い。帰蝶にしても吉乃にしても怪しいがよく知られているので使う。どうせ確かなことはわからない。帰蝶がいつまで存命だったか不明だが、信長には本能寺の変で横死するまで正室がいたことを窺わせる記録があり、継室を迎えた形跡もないので帰蝶が生きていた可能性が強い。

※ 遠藤周作、津本陽、堺屋太一氏らが小説のネタ本としたことで知られる『武功夜話』は、あまり信用できないが、かといって『武功夜話』に書いてあるから嘘だというのは合理的でない。信忠が吉乃の子であることは江戸幕府の公式の記録にも載っている。

※ 岐阜に信忠実母の位牌を収めた寺があるが、これが吉乃と別人である可能性はそれほど大きくない。故郷の菩提寺に寄進したのが信忠でなく信雄であることを不自然という人もいるが、信忠は嫡男なので帰蝶の子として位置づけられ、吉乃の菩提は信雄が中心になっていたとしても不自然であるまい。