光秀が詠んだ意味深な発句

光秀さまの軍勢が本能寺を襲ったのは、天正10年(1582年)6月2日の午前5時くらいでございました。太陽暦では7月1日ですので、京都の日の出は午前4時50分より前でした。

夜間は閉ざされていた山門も、ちょうど開けられておりましたので、兵士たちはほとんど誰にも邪魔されずに境内に入り、庫裏(くり)に上がっていけたのでございます。

このとき、信長さまが起床されていたかはわかりませんが、目は覚まされていたと思います。最初は家来たちの喧嘩かと思われたようですが、あっという間に修羅場になりました。

それから起きたことは、のちほどお話しするとして、それまでの二週間ほどの動きを順に振り返ってみましょう。

武田攻めの帰途に受けた接待の返礼として、信長さまから安土に招待された徳川家康さまは、5月15日に安土に到着されました。途中の岐阜から信忠さまも同行されました。その接待係となったのが、明智光秀さまでございました。

そこへ、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の三巨頭が救援に来るらしい、という備中高松城を攻めている秀吉からの報せがまいりました。信長さまは「これは天の計らいだ。自分が出陣して毛利を討ち果たし、九州まで一気に平定しよう」と、池田恒興(摂津兵庫)、細川藤孝(丹後宮津)、中川清秀(摂津茨木)、高山右近(摂津高槻)らに出陣命令を出されたのでございます。

光秀さまも5月19日に饗応役(きょうおうやく)を解かれて、中国への出陣を命じられました。接待の内容が気に食わないと信長さまが、小姓の森蘭丸に光秀さまを打擲(ちょうちゃく)させたというのは、この時のことでございますが、詳しいことははっきりいたしません。 

家康さまは、5月20日に信長さまからじきじきに安土城内を案内された翌日、中国攻めに参加することを約束されたうえ、安土から京・堺見物に出発されました。

京に家康さまの一行が入ったのは翌日のことで、信忠さまも同行され、沿道には群衆が見物に集まってまいりました。26日まで一行の京見物は続くのでございますが、この間に安土から家族のいる坂本城へ戻っておられた光秀さまが、中国攻めの準備のために京を通過して、明智軍団の本拠だった丹波亀山城へ向かわれました。

動きが慌ただしくなったのは、27日からでございます。信長さまが近いうちに出陣すると聞いた信忠さまが、家康さま一行の堺見物への同行をやめて京で信長さまを待って合流したい、と森蘭丸を通じて伺いを立てられました。

▲明智光秀が築城した丹波国 周山城の本丸と石垣 出典:PIXTA

同じころ、光秀さまは亀山城に近い愛宕山に参籠(さんろう)し、愛宕権現ともいわれる勝軍地蔵の前で二度三度と籤(くじ)を引き運勢を占われました。連歌の会を催され、土岐源氏である自分が天下を盗る、という意味にも取れる「ときは今 あめが下しる 五月かな」という意味深な発句を読まれたのは、翌日でございます。

そして亀山城に戻ったときになって、なんと、信長さまと信忠さまが少人数の供だけで京におられる予定になったと聞かされました。光秀さまが雷に打たれたように「今だっ!」と閃かれたとしても不思議はございません。

もちろん、四国情勢への対応とか怨恨とか、さまざまな黒幕説まで理由はいろいろ考えられるのですが、そのあたりはいずれ改めてお話しする機会があるかと思います。