天下人への野心が生まれた瞬間
備中高松城を水攻めにしていた秀吉のもとに、本能寺の変の第一報が入ったのは、事件翌日である6月2日の午後11時ごろでございました。怪しい旅の僧を捕まえたら、杖の中から、光秀さまから毛利への書状が見つかったので知ったという説があるそうですが、そんな話は聞いておりません。
たしかな知らせとしては、京の商人で信長さまの家臣でもあった長谷川宗仁から書状が届いたようでございます。しかし、その前にも異変が起きた第一報は届いていたようにも聞きます。
水攻めで備中高松城を水没寸前に追い込み、意気揚々だった秀吉のところに、本能寺の変で信長さまが亡くなったという知らせが飛び込んだわけです。
そのとき秀吉は最初、嫡男の信忠さまが明智と戦って仇を討たれるだろうから、急ぎ毛利と和平を結び、畿内へ帰り、お助けせねばと思ったのでございます。
けれども、信忠さまも一緒に亡くなったとなると話は別でございます。思い起こせば、信忠さまが11歳の永禄10年(1567年)に、7歳の武田信玄の娘である松姫と婚約されましたが、織田と武田の手切れで実行されないままになったのです。お二人とも結婚されないまま武田が滅びて、婚約がどうなったのか謎なのですが、そのあたりはまた、お話ししたいと思います。
いずれにせよ、信忠さまは結局、正室を迎えられることなく、側室との間に三法師など2人のお子がおられるだけでございました。
秀吉が、もしかして自分にも天下人になるチャンスがあるかもしれない、という野心をもったとすれば、この瞬間だと思うのでございます。

現代の企業でも、会長と社長が同時に亡くなったら、社長になれるなど思いもしてなかった専務さん、常務さんの心に社長という二文字が輝き出すのと同じことでございます。
本能寺での変事を少数の重臣に相談したときに、尾張衆はあまりのことにうろたえるばかりでしたが、播磨出身の黒田官兵衛が「さてさて天の加護を得させ給ひ、もはや御心のままに成たり」と秀吉の背中を叩いたとしても不思議ではございません。
令和の人々には、秀吉があんなに早く変事を知り、毛利方との交渉をまとめ、中国戦線から離脱できたのを不自然だと仰る方も多そうです。
ですが、別に不思議はございません。というのは、信長さまの大軍が援軍として西下してくるわけです。
気難しい信長さまの動きに応えるためにも、最新情報が入るように、武士にも町民にも、あるいは、ラッパ者たちにもお金をかけて情報伝達ルートは確保してありました。信長さまから知らせがくるのを受け身で待つだけ、というはずはございません。
それが「中国大返し」が成功した理由でもあります。信長さまの大軍が、播磨の秀吉や備前の宇喜多の領内を通って来るのですから、完璧な兵站確保のために、街道を修築したり、食料や馬を多く用意するとか、狭い道に集中しないように、脇街道をどう利用するとか全部、準備ができていたのでございます。

それを、自分が反対方向に動くのに利用しただけですし、秀吉はそういうことを組織するのは大得意でございました。
ただ、信長さまがいつ来るかと云った情報は、毛利も知りたいわけです。ですから、街道では商人や旅人を自由に行き来などさせないようにしていましたし、完璧にとはいきませんが、海路も含めてしっかり情報は遮断していたのです。