室町から戦国にかけて、ほかの多くの守護大名が没落していくなか、家中の諍いが少なかった細川家は、将軍に変わるほどの力をつけたが、結局は没落。その最大の要因は男色だった。日本の歴史が大きく変わるとき、そこに男色がある。自身を「オカマ」だと公言する山口志穂氏による、もうひとつの日本史!

男色に足元をすくわれた細川家

明応の政変で追放されていた前将軍・足利義材(義稙)の将軍復帰や、山口の大内義興(おおうちよしおき)の上洛などもありながら、細川政元の死からわずか1年のあいだに、実質的な政権トップの細川京兆家の家督が「政元→澄之→澄元→高国」と目まぐるしく変わったので、これを永正(えいしょう)の錯乱と言いました。

▲細川澄元像(永青文庫蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ

このあとも澄元派と高国派の争いが止まらず、1509年から1532年まで続いた両派の争いを両細川の乱と言います。このあともいろいろあるのですが、ここからは、政元の養子、細川高国の男色についてです。

▲細川高国 出典:ウィキメディア・コモンズ

高国が寵愛したのが、柳本賢治という男です。

『重編続応仁後記』には

「柳本弾正忠(だんじょうのちゅう)〔賢治〕ト云フ者有リ。若年ノ時ハ美童ニテ、道永禅門〔高国〕男色ニ耽(ふ)けラレケル程ニ、此者(このもの)ヲ寵愛セラレ、成人ノ後今ニ至テ俸禄ニ余リ、栄耀(えいよう)人ニ越タリケレバ」

とありますので、賢治が幼い頃は美しかったので高国の寵愛を受けて、大人になっても栄華を極めていたわけです。

ところが、高国の従兄弟と賢治の兄が対立して賢治の兄が殺されます。そのために

「此ハ君臣ノ義ヲ重ンジ、彼ハ朋友(ほうゆう)ノ睦(むつ)ミヲ厚クシ、互ニ泣ク泣ク別レケル」

二人は泣く泣く別れ、敵対することになりました。

その後、紆余曲折はありながら、最終的には1530年に賢治は高国に殺され、高国も翌年に切腹に追い込まれます。そして細川京兆家は衰退することとなりました。

細川家は、将軍家をはじめとして多くの守護大名が没落するなかでも、家中のゴタゴタが少なかったおかげで力をつけ、とうとう将軍に代わるほどの権力を得るまでになったのですが、結局は御家騒動のゴタゴタで没落していきました。その最大の要因が、男色でした。