庶民へ地方へと伝わっていく男色文化

▲足利義満公 月岡芳年画(ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ

足利義満の寵愛を受けた世阿弥の猿楽は、その後、音阿弥が観世(かんぜ)を名乗り、歴代将軍の庇護を受けます。八代義政は音阿弥の子の蓮阿弥(れんあみ)を寵愛し、九代義尚は観世彦五郎を寵愛するあまりに「広沢」という足利一門の名字と、偏諱を与えて「尚正」と名乗らせます。

三条西実隆は『実隆公記』で、大名や公家たちがお祝いを贈る光景に腹を立てていますが、やはりこの場合も「男色への怒りではなく身分不相応や依怙贔屓への怒り」です。

それはともかく、こうした猿楽の隆盛によって、猿楽の勧請興行が全国で行われるようになります。

そして、庶民向きの手猿楽が生まれ、その手猿楽から女房猿楽や稚児猿楽が生まれ、さらに平安時代に寺院で流行していた稚児による延年舞も含めて、庶民に男色文化が普及して行ったわけです。そうしたことは、この当時の紀行文からわかります。

例えば、聖護院門跡の道興による紀行文『廻国雑記(かいこくざっき)』(1468年)には、関東各地で道興が稚児と遊んだことが書かれています。

さらに連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)の紀行文『東路(あずまじ)のつと』には、1509年に下総(しもうさ/千葉県)を旅したときの情景として

「夜に入りて延年の若き衆声よきが廿余人、ふきはやし調べまひ唄の優に面白く、盃の数そひ、百たび心地狂ずるばかりにて、暁近くなりぬ」(岩田準一『本朝男色考』)

と書かれてますから、宗長が夜から早朝まで20人以上の稚児たちの延年舞を、お酒を吞みながら楽しんでいたことがわかるわけです。

つまり、室町時代というのは、仏教界→貴族社会→武家社会と拡がってきた男色文化が、とうとう庶民にまで降りてきた時代なのであって、それがさらに地方にまで拡がった時代だったわけです。

そして、それは猿楽の隆盛があればこそであるのですから、庶民への男色文化が降りてきたルーツがどこなのか? となれば「1374年(もしくは75年)の足利義満が新熊野神社で世阿弥を見初めたとき」となるでしょう。

男色文化が庶民にまで伝わり、そして地方にまで拡がったとき、世の中は戦国時代を迎えるのです。

▲男色文化が広がった日本は戦国時代へと 出典:mirai2220 / PIXTA

※本記事は、山口志穂:著『オカマの日本史』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。