自身を「オカマ」だと公言する山口志穂氏は「足利家は、ほぼ男色家」と断言しますが、それは応仁の乱を招いた足利家8代将軍義政も例外ではありません。応仁の乱開始時の西軍大将、山名宗全の怒りの原因は、義政が父の仇の甥っ子とヤっちゃったのが原因!? さらに、事実上の戦国時代の幕を開けた男として知られる、細川政元は空飛ぶことを夢見る男色家だった!? オカマの目線で見ると、新たな歴史が見えてくる!

美少年の血筋が故に寵愛され犠牲となった赤松家

義教の死後、7代将軍に義教の子の足利義勝が継ぐのですが、2年後にわずか9歳で亡くなり、その弟の足利義政が8代将軍になります。

満祐が討たれたあとの旧赤松領は、山名宗全が治めることになり、さらに嘉吉の変のきっかけを作った貞村も落馬で亡くなり、赤松家は完全に没落しました。そうなると、当然ながら赤松家の遺臣たちは、御家再興を目指して頑張ることになります。

▲山名宗全 出典:ウィキメディア・コモンズ

赤松家の領国を得た宗全の山名家は、義満の時代には全国の6分の1の11ヶ国を治めたので「六分の一殿」と呼ばれましたが、義満によって明徳の乱で3ヶ国の守護にまで没落させられていました。しかし、嘉吉の変によって山名家を8ヶ国の守護にまで復活させたのが、宗全です。

そうした事情から、今度は山名家が幕府から警戒されます。そして、そこで山名家対策として使われたのが赤松家でした。

義政は早速、満祐の甥の則尚を許して播磨を与えようとします。当然ながら宗全は怒り、1455年、則尚を攻め滅ぼしました。これについて、江戸時代の滝沢馬琴は『近世説美少年録』のなかで「慈照院義政公も亦(また)懲りずまに、赤松彦五郎則尚が美少年なるをもて恩禄の沙汰ましましき」(岩田準一『本朝男色考』)と、これを義政と則尚の男色が原因としていますが、そこまではわかりません。

事実ならば、義政は「父の仇の甥っ子とヤっちゃってる」となって、話の展開としては面白いのですが。

その一方で、義政が寵愛したことが間違いないのが、満祐の弟の孫の赤松法師丸という男で、彼は義政から偏諱(へんき)を賜って「政則」と名乗りました。さらに『重編応仁記』には「世に隠れ無き美少年なり。細川勝元深く愛して其の志常に厚く」(須永朝彦『美少年日本史』)とありますから、政則は管領の細川勝元にも寵愛を受けていたわけです。

そして、勝元は後に自分の娘を政則に嫁がせています。そのために政則は三条西実隆(さねたか)の『実隆公記』に「威勢無双、冨貴比肩の輩なし」(高坂好『人物叢書 赤松円心・満祐』)とまで言われたほどでした。

▲赤松政則像(六道珍皇寺:蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ

このとき、義教の死によって混乱していた幕府の間隙をついて、後南朝の勢力に神器が奪われていたのですが、御家再興を条件に赤松家の遺臣たちが1457年に取り返しました(長禄の変)。この功によって、赤松家は加賀半国(石川県)を得て、再興を果たします。

こうした、赤松家を使った山名家への牽制策に動いたのが管領の細川勝元だったことが、勝元と宗全の対立となり、1467年から11年にわたる応仁の乱の一因となっていきました。

▲応仁の乱 出典:ウィキメディア・コモンズ

赤松家の人たちは、義持と持貞、義教と貞村、そして義政(勝元)と政則と、美少年の血が流れているから寵愛されたと言えますが、言い替えれば、男色を使った室町将軍家による、守護大名統制策の犠牲になった人たちとも言えるでしょう。