小沼綺音、マスクの下ではニンマリしています

みなさま、こんにちは。

先日、困ったことが起きてしまいました。読み始めて早速、事件発生です。事の発端は、まさかの、前回の連載。わたくしは完全にヘマをしたのだ。そのヘマというのは、何を隠そう「掲載用に候補として提出する写真が少ない」という失態である。

今や、家電量販店や携帯ショップに並ぶ、どのスマートフォンにも高性能なカメラが搭載される時代。一眼レフも、あなた好みのものが選び放題、所狭しと映画泥棒のしゃれこうべが展示されている一角が、大体どこのコジ〇にも設けられているイメージが強い。とはいえ、写真にめっぽう弱いわたくしのイメージである。あてにしないで欲しい。

とにかく、そんなご時世で全くもって「撮る」ことをしないのは、損だと、ようやく気がついたのである。一度は連載用の素材の少なさでアタフタしたが、物は考えようだ。人生の幅なんて、どこで広がるかわからん。これからやってみようじゃないかと、機会を伺うのはやめて、自ら作り出した。

感染対策をバッチリ決め、出不精に加え撮り不精コヌマ、いざ水族館へ。これを綴りながら、はたと気がつく。こやつ、外出先は水族館関連に縁があるのかもしれない(詳しくは、過去のわたくしのニュースクランチを是非、確かアートアクアリウムの話題は4回目だったように思う)。

好きで綺麗なものなら、撮ることに執着を見いだせるかも、と考えた次第であった。この作戦は大成功を収める。幻想的なクラゲをファインダー越しにも眺め、至極満足そうなわたくしも、ついでだから皆さまにご覧いただくことにする。

よく確認したら、暗いうえに感染対策キメキメマスクウーマンであるため、表情がよくわからないではないか。これはこれは失礼しました。ニンマリしているので、どうぞ皆さまも「ニンマリしているのだなあ」とニンマリしていただいて構いません。

写真というものは、当然のことだが取っておけば、その時のありのままの情景をあとで見返すことができる。

▲表情がわからないと思いますが、ニンマリしている小沼綺音です

“撮り無精”=情景に思いを馳せるロマンチスト!?

このような文章も、記録として形が残留するという点においては、写真と同じであると言えるだろう。しかし、文章の場合、いくら心の目で視ていたとしても、実際の物は見ていない。

梶井基次郎の『檸檬』に登場する、丸善も、「壊れかかった街」の「汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗のぞいていたりする裏通り」も、もちろん「檸檬」だって、実際にお目にかかることはいくら望んでも不可能なのだ。

そして、今まで多くの文章に触れ、これからも文章を浴びていくであろうわたくしは、それが悲しいことだとは思わない。わたくしの心の中に映し出される文章の情景に思いを馳せるのは、至極ロマンティックな気分になるからだ。コヌマ的ロマンを気持ちよく語ってしまった。

しかし、これを熱弁したのには意味がある。わたくしが「撮り不精」であるのは、あるいはこの為かもしれないと思っているのだ。つまりは、文章からの想像ばかりに気を取られてしまっていた、ということ。ロマンティックを感じるものは、ひとつでも多いほうが、幸せの沼だって深くなるはずだ。これからは改めて撮るほうも、ひとつ嗜みたいと思う。

さて、文章の方面から水族館、具体的にはクラゲコーナーでの、より深い楽しみへのアプローチとして、わたくしが思い浮かべていた物語をご存知だろうか。そんなもん知るわけがない。むしろ、知られていたらかえってわたくしが困惑してしまう。

▲このクラゲちゃんを見ながら小沼の妄想劇場が始まるのであった