小沼綺音、温かいドリンクが大好物です

みなさま、どうもこんにちは。

この連載の中の人を始めてから、早いもので4ヶ月が経過した模様です。連載スタート時は、わたくしの記事を、アイスコーヒーあるいはその他の飲み物でも、いずれにしても氷をカラカラ鳴らすドリンク片手にお読みいただいていた、という想像を膨らませていた。

が、今あなたの片手にある飲み物からは、湯気がふありふありと立ち上っている。『小沼の「幸せ沼」にハマろうぜ』が打ち切りになることなく、連載への感想を多分に含んだ柔らかなスチームを心の目で眺められる、この状況に感謝するとともに「ホッと」胸を撫で下ろす次第だ。温かいドリンクだけに。

ヤバいダジャレは置いておき、わたくし自身は温かいドリンクが大好物だ。そして、湯気がでたカップを両手で持ち、ふーこらふーこら口を尖らせる自分は、少しばかりかわいいなと、思う。我ながら。

感覚の問題であるので、伝わるかどうか怪しいのだが、わたくしは、そういった「ささやかなかわいい」を大切にしている。それは多岐にわたる。友人からの「今日のアイメイクかわいい!」であったり、美容師さんからの「前髪がかわいくなりました、かわいいかわいい(しみじみ)」であったり、口から水をこぼしてしまう自分へのかわいいさえあったりする。

なんと、以上のような「ささやかなかわいい」を大事にしていたと見受けられる先人がいる。わたくしからの偏見が大いに混じっているが「そんな見方も、自由でアリだな」と幸せ沼ズブッとな、あなたなら楽しんでくれるかも!?

そういうわけで、今回ご紹介させていただくのはこちら!  と、この口調ではフリーダイヤルの向こうのオペレーターを増員させてそうだ。こんな思いつきをちゃっかり出してしまうコヌマの可愛さを愛でつつ、梶井基次郎の『檸檬』という作品を。

▲最近の小沼綺音です

梶井基次郎の『檸檬』に登場する“私”に心を掴まれた

まずはやはり、あらすじを載せる。この小説の主人公は「えたいの知れない不吉な塊」に心を押さえつけられている「私」。彼のプロフィールはといえば、京都に住むいわゆる貧乏大学生で、友人の下宿をのらりくらりしている。そんな「私」の最近のお気に入りは「見すぼらしくて美しいもの」。

例えば「壊れかかった街」の「汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗のぞいていたりする裏通り」なんかがそれに該当したらしい。そして、気分の落ち込みを抱えつつも、ユーモラスを体現したような彼はある夜、みずぼらしくうつくしい果物屋で、遂に究極のお気に入りと出会う。そう「檸檬」だ。

迷わず購入し、それを懐に入れるとあら不思議「あんなに執拗しつこかった憂鬱が、そんなものの一顆いっかで紛らされ」たのである。すっかり気分を良くした彼は、金欠のために避けまくっていた丸善へ立ち寄り、画集をめくってみた。しかし、あろうことか全く気が進まず先程「檸檬」を手にしたときに感じた「幸福感」は逃げていくばかりである。

ここで仕掛けてくるのが「私」という人間。思いつくがまま(なぜこんな発想に至るのだろうとは感じるが)画集を積上げ、頂上にあの「檸檬」を飾りつけ、とっても満足する。極めつけは、こういう人間がこぞってやろうとするアレ、だ。「それをそのままにしておいて私は、なに喰くわぬ顔をして外へ出る。」を遂行していただいたところで、読者は彼のしたり顔を頭にうかべ、本を閉じるのである。

わたくしは、いかにも憎たらしいと言った口調であらすじを述べたてたものの、実は『檸檬』を読んで以来、後半の「私」の行動のキュートさに心をすっかり掴まれているのだ。自分の心がときめくという現象を求めるのに真っ直ぐな姿勢は、赤子のようだ。

そして赤子はかわいい。ゆえに「私」はかわいいのだ。異論は認める。かわいいに、論争は似合わないし、コヌマの“ささやかわいい論”(突然名前がついているが是非話についてきてほしい)は、永久不可侵であるので、コヌマはいくらでも表面上折れる。

確固たる“ささやかわいい論”は、わたくしの手に届くところにもゴロゴロあり、過去のとっておきは、今でも鮮明に思い出せる。これからちょっとばかり、みなさまと共有しようと思う。

▲マネージャーさんが差し入れてくれたおやつを食べながら打合せ