三沢の天才的なところはなんでも対応しちゃうところ
「三沢って、練習では別に目立たなかったんですよ。飛び抜けた何かがあったわけじゃないんだけど、いざ試合をやらせてみたら“教えなくてもプロレスのイロハを全部わかっているなあ”って。だから試合内容とか、俺がなんで勝ったかは憶えてないけど、すごく楽だったことは憶えてますよ。楽って……それはいい意味でね。
普通の選手だったら、教えることがたくさんあるじゃないですか。彼には何もなかったような気がするね。きっと試合が組まれるまでの新弟子の時代に、自分で勝手にセコンドなんかで頭に入れてたんだろうね。普通、わかっていても体って動かないんだけど、そこは高校時代にレスリングで培ったものなのかなって思いましたね」(越中)
三沢本人はデビュー戦の思い出をこう語っていた。
「あの当時、夏場の試合はほとんど屋外だったからね。会場のことは憶えてるよ。なんだか、議員さんの部屋みたいなのが控室だったんだよね。でも会場を見渡すほどの余裕はなかったよ。いきなり試合が組まれていて、心の準備もできていなかったから、試合では何をやったかも憶えてないんだけど“お客さんの前で試合をする”っていうのは意識していたよね。で、試合が終わって“これで俺もレスラーだって胸を張って歩けるな”と思ったことは憶えてるよ。試合には負けたけど、それはうれしかったよ」
その後、ふたりのシングルは前座の黄金カードになっていくが、越中は当時の三沢との試合について「あの試合の流れっていうのは、もう2人の感性ですよ。三沢の天才的なところは、なんにでも対応しちゃうっていうか。全日本っていうのは、馬場さんとかトップレスラー、ベテランの選手のファンばっかりだったのが、三沢と試合をすることで変わってきているっていう手応えはありましたね。
それも“このままの状態だったら、全日本は続かないよ”って感じて、変えようとした昭雄さんのおかげですよね。一生懸命雑用をやったり、試合をやったりしても日が当たらなかったのが、昭雄さんが来てくれてガラッと変わりましたね」と言う。
なお、デビュー当時の19歳の三沢は、理想のレスラーや目標をこう語っていた。
「見ていて面白いし、自分の体が小さいせいもありますけど、僕はメキシカンみたいなスタイルが好きですね。やっぱりメキシコに行ってみたいです。マスクを被れと言われたら? あまり自分では被りたくないですけど“被れ!”と言われれば被ります。目標としては、僕は体が小さいんで、新日本プロレスの藤波(辰巳/現・ 辰爾)選手みたいなジュニア・ヘビー級のチャンピオンを目指します」
なんとも初々しい答えだが、2年半後にはメキシコに行き、3年後にはマスクを被ってタイガーマスクになり、4年後にはNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者になるのである。
※本記事は、小佐野 景浩:著『至高の三冠王者 三沢光晴』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。