「さりげなく命がけという生きざま」をリングで見せてくれた三沢光晴。昨年、そんな彼のノンフィクション大作を上梓した元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏が、幼少期、アマレス時代、2代目タイガーマスク、超世代軍、三冠王者、四天王プロレスを回顧しつつ、三沢の強靭な心をさまざまな証言から解き明かす。2回目は、幻の金メダリストと称され、レスラーとして活躍した谷津嘉章氏は、高校時代の三沢を指導していたという。高校時代の三沢はどんな人物だったのか。

“日本レスリング史上最強”の重量級と呼ばれた谷津嘉章

2年生に進学した三沢光晴は、プロになってから関わることになる人物と出会う。谷津嘉章である。三沢はレスリング部の18期生、谷津は第12期生で6年先輩に当たる。谷津は足工大附属2年生のときの73年に千葉国体フリー75kg級優勝、3年生の74年にはインターハイでフリー75kg級優勝という素晴らしい実績を残している。しかし特待生ではなく、一般からの入部だったという。

「自分は、体の厚みはなかったけど、たまたまデカかったから、部の勧誘に引っかかっちゃったんだよね。レスリング部は名門だから人気があって、当時は1学年18クラスぐらいあったから、各クラスから4人ぐらいの入部希望者がいたとしても一気に70人ぐらい集まっちゃうんだよ。

で、夏休み前には半分の35人、夏休みが過ぎると、ほとんど残らないですよ。同期は13人ぐらい残ったんだけど、そのうちの3~4人は特待生だからね。俺は中学時代に柔道をちょこっとやったぐらいしかスポーツ経験はなかったけど、一度ツボにハマると追求するタイプだし。途中で辞めるのは癪だから。

“一緒に入ろうぜ! 俺は世界を目指すぞ”とか偉そうなことを言ってた同級生たちはみんな辞めちゃって、青春を謳歌してさ(苦笑)。でも俺が段々と関東大会、インターハイ、国体でいい成績を取ると、そういう連中は俺に頭が上がらなくなって、俺が裏番長みたいだったよ。別に俺はツッパってたわけじゃないんだけど、みんながリスペクトしてくれたよ」と、谷津は高校時代を懐しそうに振り返る。

足工大附属を卒業して日本大学に入学した75年には、世界ジュニア選手権代表選考会90kg級優勝。76年は4月の全日本選手権90kg級で優勝して7月のモントリオール五輪90kg級で8位、8~9月の全日本学生選手権90kg以上級で優勝。77年は全日本選手権100kg級、全日本学生選手権90kg以上級、全日本大学選手権90kg以上級の3大会で優勝。78年は全日本選手権100kg以上級、全日本大学選手権90kg以上級、アジア大会100kg以上級の3大会で優勝(いずれもフリースタイル)と、まさに“日本レスリング史上最強の重量級”と呼ばれるにふさわしい大活躍を見せた。

大学卒業後の79年4月には、80年のモスクワ五輪を目指すために足利工業大学(現・足利大学)に籍を置いて、職員と指導者の二足の草鞋を履くことになる。

▲昨年は東京オリンピックの聖火ランナーを務めた谷津嘉章氏