「さりげなく命がけという生きざま」をリングで見せてくれた三沢光晴。昨年、そんな彼のノンフィクション大作を上梓した元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏が、幼少期、アマレス時代、2代目タイガーマスク、超世代軍、三冠王者、四天王プロレスを回顧しつつ、三沢の強靭な心をさまざま証言から解き明かす。今回登場するのは、“やってやるって!”のド根性ファイトで人気を誇る越中詩郎氏。彼から見た全日入門後の三沢はどんな人物だったのか。

わずか入門5か月で正式デビュー!

1981年3月に全日本プロレスに入門した三沢光晴がデビューしたのは81年8月21日、浦和競馬場前駐車場特設リングにおける『スーパー・アイドル・シリーズ』第2戦である。今では新人のデビュー戦が事前に発表されるのは当たり前になっているが、当時はテレビマッチの前日や翌日など、マスコミがあまり来ない会場が、一介の新弟子からスタートした選手のデビュー戦の舞台だった。三沢が知らされたのは試合前日だったという。

「まあ、バトルロイヤルには、入門して3か月ぐらいから出てたけど、それはほら、ただ先輩に投げられるだけだからさあ(苦笑)。前の日に馬場さんに“試合できるか?”って言われて“できません”とは言えないから“はい”って答えたら“そうか”のひとことだけ。デビューが近いのかなあと思ってたら、次の日のパンフの取り組みのハンコに、俺の名前があったんだよね(苦笑)」(三沢)

当時の全日本は、昔の日本プロレスと同じようにバトルロイヤルを経験させたうえで、シングルマッチで正式デビューするというシステムだった。このバトルロイヤルを経ての正式デビューについて、三沢の3年先輩で世田谷区砧(きぬた)の合宿所にて苦楽を共にした越中詩郎は「俺のときは、(グレート)小鹿さんがカードの中に一生懸命バトルロイヤルの枠を作ってくれたんだけど、三沢がデビューする頃にはグッと減っちゃったんだよね。

まあ、先輩たちにボコボコにやられてゴミ屑みたいなもんなんだけど(苦笑)、シングルでデビューする前のバトルロイヤルは練習とは違って、お客さんの前でやる度胸がつくし、俺はけっこう助かりましたよ。で、バトルになると中堅の人たちも出てきて、そうした人たちの技の重さとかを体で知ることができて貴重でしたね」と語る。

78年7月に入門した越中は、2か月後にバトルロイヤルに出場して、入門8か月後の79年3月5日の館山市民センターにおける薗田一治(ハル薗田)戦でデビュー。80年4月に入門した後藤政二(のちのターザン後藤)もバトルロイヤルには入門3か月で出ているが、正式デビューは81年2月19日の福島・霊山町民体育館における越中戦だから、11か月もかかっている。三沢の5か月での正式デビューは異例の早さだったのだ。

そんな三沢のデビュー戦の相手を務めたのは越中だった。越中は後藤のデビュー戦の相手も務めたが、さらに三沢がデビューすることをうれしく思っていたに違いない。

▲越中と三沢の激闘は全日本プロレスの前座を大きく変えた(1983年4月14日)