どんな状況下でも、大口を叩かず、弱音を吐かず、愚痴も言わず、大上段に構えることなく自然体で、さり気なく命懸けのプロレスをやってしまうのが、三沢光晴というプロレスラーだった。早いもので、2021年に13回忌を迎えたが、プロレスファンのなかでは、その存在は輝きを増すばかりである。果たしたその理由はどこにあるのか?
プロレスを敬愛するライター・ジャスト日本氏が、三沢光晴のプロレスをさまざま関係者の証言から分析・検証した『至高の三冠王者 三沢光晴』(小社刊)から、その理由を紐解く。そこには“プロレスティーチャー”小佐野景浩氏にしか書けない、青春時代の三沢光晴の姿が克明に描かれていた。
なぜ私たちは三沢光晴に魅了されたのか?
NewsCrunchをご覧の皆様、はじめましてジャスト日本です。私はプロレスやエンタメを中心にさまざまなジャンルの記事を執筆しているライターです。2017年に電子書籍『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.1』(ごきげんビジネス出版)、2018年に『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.2』(ごきげんビジネス出版)を、2020年には初の単行本『インディペンデント・ブルース』(彩図社)を上梓しました。
私がプロレスファンになったのは1992年4月。当時11歳だった私は、新日本プロレスVS誠心会館の異種格闘技戦をテレビで見て衝撃を受け、その激しい戦いに引き込まれていった。当時、地上波で放映されていた新日本プロレスと全日本プロレスのテレビ中継を録画するようになると、一気にプロレスという摩訶不思議なジャンルと、プロレスラーという超人たちの虜となった。
新日本では、圧倒的な華と驚異の身体能力を誇っていた“天才”武藤敬司のファンとなり、全日本では、当時“超世代軍の旗手”と呼ばれていた三沢光晴が大好きになった。そこから2009年に急逝するまでの17年間、私は三沢光晴のプロレスに魅了されてきた。
そんな三沢光晴のスゴさとは何か? 私はプロレスラーとしてのスゴさ、人間としてのスゴさという2点に分類されると考えている。
三沢は「不世出の天才プロレスラー」と呼ばれている。投げ技・飛び技・関節技を自由自在に使いこなし「心・技・体」を併せ持った稀代のオールラウンダーであった。
「受け身の天才」とも称され、どんな対戦相手でもその特徴・長所を十分に引き出し勝利し、幾多の王座を獲得し、名勝負を量産してきた。
また、その洗練されたテクニックは教科書どおりの基本を習得し、そこにアレンジを加えオリジナル・ムーブにまで昇華されている。特にエルボーというシンプルな打撃技を、さまざまなバリエーションと強烈な威力で、代名詞となる「必殺技」にまで昇華してみせたプロレスセンスは天下一品である。
2代目タイガーマスク時代には、飛べる日本人ヘビー級戦士という未知の領域を開拓したことも、後世のプロレス史における大きな功績と言えるだろう。
人事を尽して天命を受け止める三沢の生き様
プロレスラーとしても超一流ならば、指導者としても彼はスゴかった。ジャイアント馬場亡きあとの全日本プロレス社長に就任。のちにプロレスリング・ノアを旗揚げすると、経営者としても辣腕を振う。
2004年と2005年には東京ドーム大会を大成功に導き、ノアを業界の盟主に押し上げたのは、その人徳とリーダーとして統率力にあった。2009年7月4日に東京・ディファ有明で行われた「三沢光晴お別れ会」において、徳光和夫さんの弔辞が彼の人間としての大きさを象徴している。
「君ほど私利私欲を考えずプロレス界のために、人のために尽くした人はいないと思います。君は常に自分より恵まれない人、そういった人に目を向け、手を差し伸べてこられました。怪我をしてリングに上がれなくなったレスラーに、スポーツトレーナーとしての道を歩ませるために学校に通わせたり、レスラーのための生命保険づくりにあたったり、筋の通らないことをすると、電話をしてその者を叱ったり、決して大きなこと大言壮語を吐くことなく、相手のことを思い、的確なアドバイスをしてくれたという声が、あちこちから聞こえてきます」
全日本時代には、他団体のレスラーが初参戦するときは率先して声をかけたり。まだプロレス会場にメディア関係者の女性が皆無だった時代、会場に訪れた女性記者が自然に接して取材に入りやすい雰囲気を作っていたという。自分のためではなく、目の前で困って苦しんでいる誰かのために、火中の栗を拾い、決起して人事を尽して天命を受け止めるのが、三沢という男の生き様だった。