マスクを脱ぐのはあのタイミングしかなかった

谷津が突如、マスクに手をかけて執拗にヘッドバットを連発するラフファイトに出たのにも理由があった。

「俺は陰ながら、ひとつのきっかけを作ったと思ってるんだよ。俺が三沢のマスクを脱がしちゃったら、三沢と俺の抗争のスタートみたいになっちゃうから、あそこは三沢が自分で、あるいは川田に指示してマスクを自ら脱ぐことが重要なポイントだったの。だから三沢が“冗談じゃねぇよ!”って自分で脱ぐぐらい怒らせなきゃいけなかったの。

あのタイミングしかなかったと思いますよ。まあ、あのやり方っていうのは、新日本プロレスの理論なんだけどね(苦笑)。マスクを脱いだ三沢がプロレスそっちのけで、喧嘩腰で向かってきたでしょ。あれでよかったんですよ。あそこで華麗なファイトをやったら嘘だから。結果、俺がボコボコにされちゃったけどさ(苦笑)。

考えてみたら、あの試合で三沢はタイガーマスクのハイスパートをひとつも使ってないんだよ。気持ちだけで戦っていた感じだった。やっぱり心に期するものがあったんじゃないの?」と谷津は言う。

谷津はこの試合のあと、5月20日の土佐大会まで出場したが、負傷悪化で再び欠場。7月7日の後楽園ホールで、鶴田との五輪コンビで復帰して三沢&川田に勝利、翌8日の横須賀でも五輪コンビで三沢&田上明に勝ったが、1日オフを置いた10日の福島・白河大会から欠場。辞意を表明して8月7日にSWSに入団した。

「7月に2試合出たのは、たぶんカードが発表されていたからだと思いますよ。ジャパン・プロレスが分裂したときに行動をともにして、全日本に残った仲野信市と高野俊二が、俺の欠場中にSWSに行っちゃったのもそうだし、三沢と川田がいるから、今さら全日本に残ってもダメなのかなって。

俺が欠場中に三沢も川田もガーッと上に行ったから、俺がいないほうが風通しがいいなと思って。それで仲野に電話して『信ちゃんよ、SWSに行けないのかよ。なんで俺に内緒で先に行っちゃったんだ、この野郎!』って(苦笑)」(谷津)

谷津は、今回の取材にあたって最後にこう語っていた。

「SWSに行ってからは一切会うことはなかったね。だから三沢が亡くなったのを知ったのはニュース。人生に“もしも”はないけど、もしも俺が、三沢ともうちょっとコミュニケーションを取れていたら、三沢の懐刀になってあげられたと思うことはありますよ。

三沢が亡くなった当時、もう俺は会社をやりながら、たまにプロレスの試合に出ているようなセミリタイア状態だったけど、足利工大のレスリング部のOB会の副会長をやってたから、OB会としてディファ有明での献花式(7月4日)に参列しましたよ。何万人ものファン(2万5000人)が集まって、すごいなあと。

遺族の方々はつらいでしょうけど、早く逝っちゃうとレジェンドとして残るよね。少年の時代からあんなに好きだったプロレスで、そのリング上で逝ったっていうのは本望だったと思いますよ。体は限界に達していたって聞いたけど、あの試合じゃガタガタになるわ。それも試合が過激なだけじゃなくて、全日本プロレスの流れそのままに複雑でしょ。

しかも彼は社長として、責任感を持って、休まずにやっていたわけでしょ。若手に飯食わせながら、自分で団体をやってたわけだから、俺が知っている頃の三沢とは全然違うよね。あんなに責任感の強い男だと思わなかったもんな。自分で独立して、選手を抱えて、好きなことをやって、神様になったわけだから……こんな言い方をしたら遺族の方々には申し訳ないけれども、プロレスラーの三沢光晴としてはサクセスですよ」

※本記事は、小佐野 景浩​:著『至高の三冠王者 三沢光晴​』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。 


プロフィール
 
三沢 光晴(みさわ・みつはる)
1962年6月18日、北海道夕張市生まれ。中学時代は機械体操部に入部し、足利工業大学附属高等学校に進学するとレスリング部に入部。3年時に国体で優勝などの実績を残し、卒業後の81年3月27日にジャイアント馬場が率いる全日本プロレスに入団。その5か月後にはデビューを果たすなど早くから頭角を現す。メキシコ遠征ののち、84年8月26日に2代目タイガーマスクとしてデビュー。翌年にはNWAインターナショナル・ジュニアヘビュー級王者を獲得する。90年に天龍源一郎が退団すると、試合中に素顔に戻り、リングネームを三沢光晴に戻し、超世代軍を結成。果敢にジャンボ鶴田やスタン・ハンセンなど大きな壁に挑むひたむきな姿で瞬く間に人気を博す。92年8月に三冠統一ヘビー級王者を獲得すると、名実ともに全日本プロレスのエースとして君臨。川田利明・田上明・小橋健太との“四天王プロレス”では極限の戦いを披露した。その後、全日本プロレス社長就任と退団を経て、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。社長兼エースとして日本プロレス界をけん引する。2009年6月9日に試合中の不慮の事故で46歳の若さでこの世を去るも、命を懸けた試合の数々とその雄姿はファンの記憶の中で今なお生き続けている。