「さりげなく命がけという生きざま」をリングで見せてくれた三沢光晴。昨年、そんな彼のノンフィクション大作を上梓した元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏が、幼少期、アマレス時代、2代目タイガーマスク、超世代軍、三冠王者、四天王プロレスを回顧しつつ、三沢の強靭な心をさまざま証言から紐解く。今回は、なぜメキシコ遠征中の三沢が、2代目タイガーマスクに指名されたのか。一大プロジェクトになっていたという、その裏側を解き明かす。

馬場が胸に秘めていた驚天動地のプラン

三沢と越中詩郎が、メキシコの武者修行で奮闘している頃、ジャイアント馬場はあるプランを練っていた。前年1983年8月10日、人気絶頂の最中で電撃引退したタイガーマスク(佐山聡)を、全日本プロレスのリングでカムバックさせようというビッグプランだ。

馬場は、タイガーマスクが電撃引退する以前から「タイガーマスクvsスティーブ・ライトの試合をテレビで見たけど、あれはいい試合だったなあ。ウチのジュニアでも、ああいう試合ができる選手がいるといいなあ」と語るなど、興味と好意を持っていた。

タイガーマスクの仕掛け人・元新日プロレス取締役営業本部長の新間寿(しんまひさし)は、馬場に会う度に「新間さん、タイガーマスクは本当にすごいなあ。彼は団体を超越した日本プロレス界の宝だよ。彼は大事にしないといけないよ」と言われていたそうだ。

82年から全日本と新日本は休戦協定を結んで良好な関係になり、馬場は83年8月18日にロサンゼルスのガラスの教会で執り行われることになっていた、佐山の極秘結婚式に招待された。だが、佐山タイガーの電撃引退と、新日本のクーデター騒動によってキャンセルになったときには残念がっていたという。

その後、佐山はザ・タイガーとして理想の格闘技を確立するべく、翌84年2月11日、東京・世田谷に『タイガー・ジム』をオープン。この2月下旬に、馬場は松根光雄社長と一緒に日本テレビ関係者の仲介により、佐山のマネージャーのショウジ・コンチャとキャピトル東急ホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)で会談の場を持っている。この会談はコンチャから全日本にアプローチしたものだった。

当時、佐山は4月旗揚げが噂されるUWFでのカムバックが取り沙汰されていた。新日本を退社してUWFの仕掛け人になった新間が「タイガーマスクは私が必ず復帰させる」と宣言していたからだ。

だが、新間と折り合いが悪かったコンチャは、全日本に売り込んだ。佐山に言わせれば「僕の知らないところで、全日本に売ろうとしていたんです」となる。このとき、コンチャが全日本サイドに提示した契約金は2,500万円という説もあれば、最終的には2億円まで吊り上がったという説もある。

どうあれ、慎重居士の馬場は、コンチャの話には簡単に乗らなかった。「あれだけの人材だから、まったく興味がないと言ったら嘘になる。ただ、その興味以上に、あれだけの人材がなぜ新日本からこんな形で飛び出さなければいけなかったのか、ということが大いに引っかかる材料だね。そのあたりの問題がクリアされなければ……」と、答えを保留したのだ。

それでも、馬場はタイガーマスク獲得を断念したわけではなかった。5月下旬に『甦える四次元殺法 ザ・タイガー新格闘技の全て!!』なるビデオを入手してチェック。夏には大仁田厚、マイティ井上、マジック・ドラゴン(ハル薗田)、メキシコに出した三沢、越中、アメリカとメキシコの軽量級の実力者、そしてなんとか佐山タイガーを参加させての『ジュニア・ヘビー級カーニバル』を開催することを検討していたのである。

▲馬場のプランなど露知らずメキシコマットで越中と奮闘中の三沢(1984年3月16日)