「さりげなく命がけという生きざま」をリングで見せてくれた三沢光晴。昨年、そんな彼のノンフィクション大作を上梓した元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏が、幼少期、アマレス時代、2代目タイガーマスク、超世代軍、三冠王者、四天王プロレスを回顧しつつ、三沢の強靭な心をさまざま証言から解き明かす。今回は、ついに虎の仮面を脱ぎ捨てた三沢の決意を後押しした、天龍源一郎と谷津嘉章の心理に迫る。

「三沢がいるから大丈夫ですよ」と馬場に語った天龍

▲今なお伝説として語り継がれる虎の仮面を脱ぎ捨てたシーン

1990年春、全日本プロレスは大激震に見舞われた。天龍革命を起こし、ジャンボ鶴田との抗争で昭和・全日本末期の黄金時代を築いた天龍源一郎が4月26日に退団したのだ。

退団前日の25日に発売された『週刊ゴング』第306号の表紙に躍った見出しは『横浜決戦3日前、天龍が本誌記者に激白――「ジャンボに負けたら俺は辞める!」 そして天龍は敗れた…』。まるで天龍の退団を事前に知っていたかのような文言で、ジャイアント馬場も「ゴングは知っていた」と思い込んでいたようだが、退団と重なったのはまったくの偶然だった。

4月16日、私は大阪府立体育会館で、3日後の横浜文化体育館におけるジャンボ鶴田の三冠ヘビー級王座に挑戦する意気込みを聞きに、天龍の控室に行った。4月7日に天龍同盟を解散したので、ひとりきりの控室。付き人の折原昌夫も雑用で外に出ていて、部屋は天龍と私の2人だけだった。

そこで、天龍が不意に「ジャンボに負けたら……辞めるよ」と、ひとりごとともつかない素っ気ない口調で言ったのだ。

驚いた私が「辞めるって……引退するってことですか? そんなことになったら大変ですよ」と、狼狽しながら問うと「いや、俺に引退はないよ。あるのは廃業。業を捨てるのが廃業だからね。……これは内緒だぞ」と含み笑い。“今のは、冗談だからさ”という、言葉を打ち消すような表情を見せた。

そして4月19日の横浜文化体育館。天龍は鶴田のバックドロップ・ホールドに敗れた。私の頭は混乱した。「ジャンボに負けたら辞める!」という言葉を聞いてしまっているのだ。

当時の天龍は疲れ切っていた。87年春の長州らの大量離脱事件から約3年、全日本は活況を取り戻し、日本武道館のチケットも試合カード発表前に完売するまでになり、「もはや天龍同盟は必要ないのではないか。解散させて全日本のリング上を再編成すべきでは」という声が内部で上がり始めていたのだ。

マッチメークに関しても天龍の意見が通りにくくなったり、天龍が知らないうちにカードが発表されるということもあった。この年の契約更改の内容にも不満が残った。さらにサムソン冬木、川田利明が疲弊して精彩を欠き、天龍同盟が限界にきていることは明らかだった。だから天龍は、自ら天龍同盟を解散して冬木と川田を正規軍に戻した。

そんな状況だっただけに、表紙の見出しは刺激的だが、内容的には「天龍よ、再び立ち上がれ!」という内容のエールを送る記事にした。本の発売翌日の26日夕方、馬場から清水勉編集長に電話がかかってきた。私は記事に対するクレームだと思って肝を冷やしたが、そうではなかった。

「もう知っていると思うけれども、天龍がメガネスーパー(=SWS)に行くことになった。天龍とは今日を含めて何回か話し合ったけれども、すべてきれいな話ができたと思うし、将来的には天龍のところとウチで対抗戦が行われることもあり得る。円満退社という形なんで、くれぐれも変な記事を書かんでくれよ」というのが電話の内容だった。

「もう知ってると思うけれども」と馬場は言ったが、天龍の退団が正式決定するまで、メガネスーパーに行くことはまったく知らなかった。

その経緯については、拙著『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』で詳しく触れているが、天龍の離脱にスペースを割いたのは、それだけ全日本にとって大きな事件だったということと、この事件が三沢光晴のプロレス人生を大きく変えたからだ。

天龍は「お前が辞めたら、全日本はどうなると思う?」という馬場の説得に「いや、俺が抜けたって、三沢がいるから大丈夫ですよ」と答えた。

▲90年の東京ドームではタッグを結成するなど天龍は三沢に期待を寄せていた