毛利輝元を自ら案内する手厚い「おもてなし」

中国地方を支配する安芸の毛利輝元さまは、早くから秀吉と友好関係でございましたが、上洛されたのは九州遠征が終わってから、小田原攻めが始まるまでのことでした。

懸案の足利義昭さまの帰洛も実現し、なんの支障もなくなったわけです。このときの様子を少し時間を遡りますが紹介いたします。

毛利輝元さまは、天正16年(1588年)4月の帝の聚楽第行幸に参加されたかったらしいのですが、肥後の地侍たちの反乱を鎮圧するために九州に遠征されており、叶わなかったのでございます。

毛利輝元公像 出典:しろぽる / PIXTA

そこで、7月になって、秀吉への服従を誓い、帝から官位をいただくために上洛することになりました。7月7日に居城の郡山城をお発ちになり、兵庫と大阪で泊まり、7月22日の午後4時に入洛されました。3,000の兵を引き連れ、さらに、秀吉が派遣した迎えの大名たちの2,000の兵を加え、5,000人の大行列で、都大路は見物人であふれました。

宿舎は妙顕寺だったのですが、その前に曲直瀬道三(まなせ どうさん)の邸宅に入られました。名医として知られ、外交にも力を発揮した実力者で、こちらのほうが居心地がいいといって、その夜は泊まられたそうです。なんでも、道三の家の蒸し風呂が気に入られたのだそうです。

そして、その翌々日に聚楽第にお見えになりました。輝元さまからは、秀吉に銀子3,000枚と太刀、馬や鷹。私にも銀子200枚と白糸をくださいました。私の甥で秀吉の養子になっていた金吾(秀秋)には、沈香と虎の皮、それに太刀でした。まだ、少年ですから大喜びでした。

そして参内して、まずは従四位下侍従となり、ただちに参議に昇進されました。いきなりは参議になれないからでございます。

秀吉との面会は、公式のときは、秀吉が一段高いところに座り、左右に官位の順に大名や公家が列席し、輝元さまもそのなかにおられたわけですが、非公式には茶室で小早川・吉川のお二方と茶人の今井宗久だけを交えてお会いになっています。

輝元さまは8月29日まで京都に滞在され、近江観光に出かけられたのち、大坂経由で安芸へ帰られました。大坂では、秀吉が自ら大坂城の奥御殿や天守を案内しておりますが、大友宗麟さまの日記で秀吉は舶来のベッドで寝ていることも自慢したようです。

秀吉が周りに語った「天下の三陪臣」

さて、天下統一のときに九州がどうなったかといえば、筑前一国に加え、肥前と筑後の一部も、小早川隆景さまに差し上げました。秀吉としては、信頼できる隆景さまに西日本の仕置きの中心になってもらいたい、ということでございました。

少しあとのことですが、五大老というものを秀吉は決めましたが、最初は德川家康さま、前田利家さま、毛利輝元さま、宇喜多秀家と、もうひとりは隆景さまで、亡くなったあとに上杉景勝さまが代わりに入られたのでございます。

隆景さまに筑前を差し上げたので、秋月種長さまは日向の高鍋に移られました。天下の名器と言われる「楢柴」を、秀吉に献上したご褒美のようなものです(この名器は島井宗室さまからとりあげたものでしたが)。豊前の高橋元種さまも、やはり日向の延岡へ移られました。

立花宗茂さまは、大友さまの家臣でしたが、宗麟さまのお口添えで、独立の大名ということになって筑後の柳川に移られました。

久留米には、小早川隆景さまの弟で養子でもある秀包(ひでかね)さまが入られました。毛利からの人質ということで、大坂城の私のところに来ていたことがございますが、イケメンで武芸万能、とくに鉄砲の名手で、女たちの憧れの的でした。

▲「イケメンの毛利秀包さまにはファンが多かったです」 イラスト:ウッケツハルコ

私の甥(兄の家定の子)の秀秋が、のちに隆景さまの養子になったので、秀包さまは独立して大名となり、朝鮮や関ケ原の戦いの前哨戦だった大津城攻めでも活躍いたしましたが、敗戦のあとは毛利氏のもとに戻ったのち、すぐに病死してしまいました。

秀包さまの夫人は大友宗麟さまの姫で、熱心なキリシタンだったマセンシアさまで、子孫は吉敷毛利家と呼ばれ、明治になると男爵になりました。

肥前では、竜造寺隆信さまが亡くなったあとは、隆信さまの母上が再婚した相手のお子である鍋島直茂さまが、家中を仕切っておられました。しかも、秀吉に従おうという方向に導いてくれたのも直茂さまで、とても優れた武将でございました。

秀吉は、この直茂さまと、上杉さまのところの直江兼続さま、それに堀秀政のところの堀直政さまをたいへん買っており、誰かに天下の三陪臣と言っていたこともあると聞いております。小早川隆景さまを入れる方もおられますが、隆景さまは陪臣というには大物すぎます。

▲佐賀城跡 出典:papa88 / PIXTA

結局、関ケ原の戦いのあとになって、鍋島家が龍造寺家を継承するといった形になりましたが、両家は一族とみなされ、各地にたくさんの1万石を超える石高をもらう家老がいることになりました。

ちなみに、上皇陛下の美智子上皇后の母方の副島家は、多久という龍造寺系の家老の家臣、現在の雅子皇后陛下の母方の江頭家は、手明槍という、普段は農業をしているが、事あるときは槍を持って馳せ参じる身分のお家だと聞いております。

肥前では、キリシタン大名の大村純忠と有馬晴信、それに平戸の松浦家、五島の五島家は生き残りました。対馬の宗義智も朝鮮との交渉がありますから、そのままです。

豊前のほとんどは黒田官兵衛さまに与えました。功績に比べてたいしたことないという人もいますが、九州征伐が終わったときでいえば、譜代の家臣たちのなかでは、阿波の蜂須賀の次ですから、少なくはありませんでした。加藤清正や石田三成がもっと大きな石高をもらうのはそのあとのことです。豊前のうち小倉周辺は、やはり古参の家臣である毛利勝信に与えました。

豊後では、大友宗麟さまのお子の義統さまに豊後一国を安堵いたしましたが、最初から頼りなくて少し心配でございました。また肥後では、佐々成政の不用意な統治で反乱が起きたので、朝鮮への遠征も睨んで、北部は加藤清正、南部は小西行長を抜擢して治めさせました。しかし、この二人は仲が悪く、朝鮮でもライバルとして、いい方向で競うだけでなく、互いに足を引っ張っていたから困ったものでした。

そのほか、肥後球磨郡人吉の相良、日向飫肥の伊東も残しました。