聚楽第の跡地からは金箔の瓦も出てくる

山崎の戦いののち、秀吉は京では本国寺に滞在するのが普通でした。足利義昭さまが上洛後にしばらく住んでおられた法華宗のお寺でございます。現在の西本願寺北側で、本願寺聞法会館になっているあたりにございましたが、昭和40年代にもめ事から財政難になり、山科に移転したのです。

このあと秀吉は、信長さまが安土城に行幸をお迎えすることを夢とされていたのと同じように、大坂城を築城し、そこに帝をお迎えできればという気持ちが芽生えてまいりました。

さらに、いっそのこと都を難波の地に移したら、と勧める人もおりましたが、それは平清盛さまが無理に福原(神戸市)に遷都したことがきっかけで、平家滅亡になったからやめたほうがいい、という公家衆や僧たちもいて、なかなか難しそうだというので、沙汰止みになっていました。

その頃、秀吉は信長さまを引き継いで、平朝臣ということになっておりましたので、そう思われても仕方ございません。

しかし、天正13年(1585年)の夏に、近衛前久さまの猶子になって関白となりましたので、それなら京に住んで、帝の近くにいなければならないということになりました。

そこで、本能寺の変のときに織田信忠さまが最初に滞在しておられた妙覚寺と、現在の二条城のあいだに位置する、小川通り西押小路という場所にあった妙顕寺を立ち退かせて「二条第」を築きました。京の奉行だった前田玄以の本拠にさせるとともに、とりあえず秀吉の京屋敷にあてることにいたしました。

さらに、翌年の正月には「内野」と呼ばれていた平安京大内裏の跡地に、聚楽第と呼ばれることになる巨大な城を築き始めました。聚楽第は「喜びが集う邸宅」といった意味だそうでございます。

▲聚楽第跡 出典:ogurisu_Q / PIXTA

平安京の大極殿は、現在の千本通と丸太町の交差点の真ん中にあったのですが、大内裏の北端は一条通で、東端は大宮通でした。新しい城は、大内裏の北東の部分を占め、この2つの通りのほか、南は御池通より少し北、西は千本通より少し東あたりが外堀になっていました。

山里町とか須浜町というのは、聚楽第の庭園の名残でございます。東堀町は本丸の東のお堀があったところです。本丸跡などは住宅密集地ですので、まとまった発掘が難しいのですが、マンション工事などの機会に石垣が見つかったり、金箔の瓦も出てまいります。

また、ところどころ、高さで2メートル程度の段差があり、これは石垣やお堀の跡らしいです。

そして大名屋敷を、最初は聚楽第を囲むように、ついでそれより東側の、現在の府庁周辺に集めましたので、御所から見ると、武家屋敷の向こうに金ピカの聚楽第が輝くといった風情でございました。

現在の京都御苑を囲む生け垣は、明治維新後にできたもので、それまでは市街地のなかに御所もあったのです。たとえれば、塔頭が並ぶ南禅寺境内のような趣でした。

現在でも、黒田官兵衛にちなむ如水町のほか、弾正町(上杉景勝)、飛弾殿町(蒲生氏郷)、主計町(加藤清正)、浮田町(宇喜多秀家)、福島町、長尾町などの地名が残っています。それは聚楽第があった頃の、城下町の名残なのでございます。

この聚楽第は、天下統一のあとに秀吉が大陸遠征のために名護屋城に移ったのちは、関白となった秀次に譲られ、秀次事件のあとは解体されました。建物は伏見城に移されたので、ところどころに堀などの痕跡が残るだけですが、江戸時代初期に描かれた多くの「洛中洛外図屏風」には、人々の記憶にあった姿が描かれており、当時のイメージはつかめます。

広島城は、この聚楽第を真似たものと言われており、縄張りも含めて、よく似ております。

四層の天守閣がそびえていましたが、それほど大型ではありませんでした。庭には、京のあちこちから名石を集め、庭は大坂城にもまして豪華なものでございました。

公家衆や名刹がメロメロになる秀吉流「接待」

私たちは、9月13日に大坂から引っ越しましたが、その行列を見たさに人々が集まり、大変な騒ぎでビックリいたしました。

この聚楽第は、最初から帝の行幸をお迎えすることを予定して創られたものでございます。なにしろ、室町時代では、武士のあいだでも上司を自宅にお迎えすることほど名誉なことはなかったのです。

たとえば、茶々の実家である浅井家は、小谷城に形の上では主君である京極さまをお迎えになったことがありますが、これは、京極さまが湖北の支配は浅井に任せたということを披露するためのものでした。

貴人をお迎えして、同僚である周りの武士を集め、能などのアトラクションをいろいろ用意し、豪華な食事を提供し、お土産を出すわけで莫大な費用がかかります。その代わりに、同僚たちより少し高い立場となって、彼らに指示に従うよう求めることができるわけです。

帝の行幸は、足利義満さまが二度にわたって北山第でお迎えし、五代将軍・義教さまが花の御所にお迎えして以来のことであり、天下が治まったことを意味する行事だったのでございます。

さて、天正16(1588)年4月14日、新しい帝と上皇さまを、聚楽第にお迎えする日がまいりました。

秀吉は御所へ準備が整ったことをお知らせに参内し、それを受けて帝の行列が御所を出ました。鳳輦(ほうれん)は、近衛大将である鷹司信房さま、西園寺実益さまに先導され、後ろには織田信雄さま、德川家康さま、それに豊臣家から秀長、秀次、秀家が従いました。そのあと、秀吉の行列が続き、ここに諸大名が参加しました。

秀吉は5日間に渡っておもてなしをし、合わせて銀5,530両に米800石、公家や門跡寺院に領地を8,000石と大盤振る舞いをいたしましたので、公家衆や伝統的な名刹もすっかり秀吉贔屓になりました。

もちろん、こうした接待は家臣たちや公家衆が、前例などを調べて準備したものですが、秀吉もことこまかに指示を出しておりました。こういう仕事をさせたら、秀吉に叶う人はいません。それに、なにしろ私がついているのですから、鬼に金棒です(笑)。

▲「こういうときの秀吉の仕事は特に早いです」 イラスト:ウッケツハルコ

また、このときに、織田信雄さまや德川家康さまをはじめとする大名は、帝の前で秀吉への忠誠を誓われました。

おもしろいことに、このときの肩書きが、たいていの大名は豊臣姓を名乗りましたが、平信雄、源家康、秦元親(土佐の長宗我部さまのことです)といった肩書きになっているのは、古代からの名家が秀吉に従った、というデモンストレーションだったのでございます。