秀吉もビックリ! 弟・秀長の財テク術

天正17年(1589年)5月27日に、茶々の大手柄で鶴松が淀城で生まれました。そして、次の年には、小田原征伐で勝利を収めて天下が統一され、秀吉は幸福の絶頂にありました。

ただ気がかりなのは、弟の大和大納言秀長の体調があまり良くないことでございました。すでに天正14年(1586年)には、有馬温泉へ湯治に行ったりしておりますが、それでも、次の年の九州遠征では、日向方面の総大将として活躍いたしました。

そして、この功績で従二位権大納言となりました。大和大納言と呼ばれるのは、このためです。

天正17年(1589年)の正月、大坂城に新年の挨拶にきたあとは、体調がよくないというので、大和の郡山城に引き籠もって小田原の陣には参加されず、秀吉も小田原から帰ったあとの10月には、郡山城へ見舞いに出かけたりしております。

秀長には、成長した男子はいなかったので、二人いる娘のひとりに、姉である「とも」の末子である秀保と結婚させて、跡を継がせる手配もいたしました。

秀長が亡くなったのは、天正19年(1591年)の1月のことですが、このときになんと、金子56,000枚、銀は二間四方の部屋を埋め尽くすほどあったと、奉行からの報告を聞いて秀吉もビックリしておりました。

▲「弟がコツコツ貯めてたものを兄が食べちゃうなんて!」 イラスト:ウッケツハルコ

また、秀長の死んだあとに、領内で金貸しの酷い取り立てが問題になっているということで調べていくと、金貸しの儲け話に秀長も参加していた“ふし”もありました。

なにしろ、若い頃から木下・羽柴家の台所を預かってきたのは秀長で、金貸しをすることも財テクの手段として得意でしたから、さもありなんではありました。

秀長は、秀吉と性格が違うのが、ちょうど良かったと皆さん仰います。秀吉の言うことを聞いているばかりでもありませんでした。賤ヶ岳の戦いでは、秀吉が美濃に転戦しているときに、湖北に残っていた羽柴軍を柴田勢が攻めてきたとき、兵力が足りなくて応援は危険だと、中川清秀さまを救援に行かず見殺しにして、秀吉をえらく怒らせました。

しかし、そのへんは、このとき秀長が応援に行って負けていたら、秀吉が戻る前に敗戦になっていたでしょうから、秀吉の「怒り」は表向きということも言えます。

あるいは、九州攻めのときに、食料を武将たちに高値で売りつけようとして秀吉から止められています。※1

この秀長は、秀吉の異父弟ですが、そのまた妹に德川家康の再婚相手になった旭がいます。異父姉のともと同様、まだ百姓をしていた頃に結婚していたのですが、子どももなく平凡に暮らしているときに、離婚して家康さまと結婚しろと言われて従いました。

最後の頃は、家康さまも京におられることが多かったのと、母親の大政所の病気見舞いなどもあって、京に戻ったのですが、旭のほうが体調を崩し、最後は聚楽第で亡くなりました。家康さまは、ちょうど、北条との厳しい交渉にあたられているころで、また、人質として秀忠さまが上洛してきた翌日のことでございました。

義母のなか(大政所)は、さすがに病気がちで、秀吉に頼んで京の大徳寺境内に、天瑞寺というお寺を建立していましたが、いったん回復して、とりあえずは元気でした。

このお寺は、今はなくなっておりますが、病気平癒を祝って建立した石造りの寿塔だけは、今も跡地に明治になってから移ってきた龍翔寺にございますし、この塔の覆堂は明治時代に、横浜の三渓園に移築され現存しております。

諸説ある千利休が切腹させられた真相は・・・

それから、身内ではありませんが、茶人の千利休さまが、秀吉と喧嘩したあげく切腹させられるという事件がございました。

▲千利休像 出典:みーちゃん / PIXTA

利休さまは、堺で干し魚などを扱う商人でした。信長さまが上洛されてからは、堺の有力者のなかで、信長さまへ接近しようという商人たちの代表格でございました。

秀吉が山崎に居城した頃に、現在にも残る待庵(国宝)という簡素な茶室をつくったり、大坂城の山里丸にも茶室をつくりました。

天正13年(1585年)には、秀吉が正親町天皇で禁中献茶をしたときも取り仕切り、このとき参内するため居士号である「利休」を勅賜されたのでございます。黄金の茶室を設計したのも利休ですし、北野大茶湯もプロデュースし、聚楽第内に屋敷を構えました。

大友宗麟さまが、大坂城にお見えになられたときには、秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と言われたとも記録にございます。まだ、石田三成なども仕切り役として成長していない頃は、秀吉の右腕ともいわれました。

ただ、そうなると、いろいろと讒言(ざんげん)をする人も出てきますし、商人ですからえげつない金儲けをされなかったわけでもありません。

安い茶碗でも利休さまが名品だと言われると値がつきますし、利休さまが自分で茶道具を開発して作らせ、高く売るということもあって、秀吉のところにも悪口を言う人が増えました。

また、金ピカが好きな秀吉との好みの違いも出てきて、秀吉が嫌いだと言っている黒の茶碗を、利休さまが茶会で使って秀吉の気分を害したこともございました。

小田原の陣のときには、以前に秀吉が追放した山上宗二さまを、再仕官したいということで利休さまが連れてこられたそうです。ところが、生意気なことを申したので秀吉と言い争いになり、成敗されてしまったこともあります。

また堺でも、秀吉が自治の象徴だった環濠を埋めることを命令したりして、これまでの「内々のことは宗易(利休)に」と言う神通力にも陰りが出てきたことも我慢できなかったようです。博多の商人・神谷宗湛が茶会に招かれたら、利休さまが黒茶碗を示して「上様が嫌われるから、このように飾っている」と言ってみたり、ついには、秀吉への手前に黒茶碗を出して「黒は良き心なり」と言ってみたり、秀吉の気分をあえて逆なでするようなことをされました。

▲大徳寺山門 出典:legao / PIXTA(

そして、秀吉と利休さまに隙間風が吹いているという噂が流れると、秀吉に告げ口をしてくる者もますます増えます。そんななかで、大徳寺三門(金毛閣の)改修にあたって寄付をしていたことから、ご自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉や高貴な人に通らせていたということが発覚したのです。これには秀吉も、利休さまをこれまでのように使うわけにはいかないと思いました。

そこで秀吉は、利休さまに「京を退き、堺で謹慎するように」と言いました。こういうときに秀吉から、謹慎しろとか、何を没収するとか言われたら、とりあえず弁解をして謝り、それでもダメなら、命令に従っておれば、また復活のチャンスは与えられるということは、利休自身がよくわかっているはずでございました。

前田利家さまなどは、私に取りなしを頼んだらと助言されたとも聞きますが、「女の世話になって許されたとしても恥ずかしいだけ」と仰ったと夫人のまつさまから聞きましたが、ともかくも残念でなりません。

利休さまは、細川忠興と古田織部の二人に見送られて堺に帰りました。秀吉は何も詫びを入れてこないのにますます腹を立て、利休を京に呼び戻し、周囲を大げさに上杉景勝さまの兵隊たちに囲まさせ、切腹を命じられました。

秀吉が、利休さまの娘を側室に望んだと言う話は聞いたことありませんし、朝鮮遠征に反対する利休さまが邪魔だったとかいう方もおられますが、利休さまが朝鮮遠征にとくに反対されていたわけでもなく、それを動機とするのは、現代のあちらの国の方のご都合での作り話でしょう。茶の湯と高麗の文化に関係あるとか言う話も聞いたことがありません。茶碗などは使われていましたが、それはルソンの壺などと同じことです。

利休さまの茶の湯と、半島が関連するというのも聞いたことがありません。井戸茶碗などを利休さまが珍重したのは確かですが、ルソンなどのも含めて海外の日常の生活雑器を好んで使ったというだけのことですし、半島の方々がそういうものの美しさを大事にされていたわけでもありません。

私の眼には、初老の老人同士の意地の張り合いが、こういうことになってしまったとしか見えません。利休さまは身長が180cmもある大男で、堂々としていて、誰もが圧倒されるような侵しがたい方でした。秀吉にも、なんとか屈服させたい気持ちもあったでしょうし、利休さまも上手に詫びを入れるという術をご存じなかったということでないでしょうか。

しかし秀吉は、利休さまがいなくなると、文化プロデューサーとして利休さまのいなくなった穴の大きさが残念でならないらしく、伏見城を築城するときにも「利休好み」でやれとか未練がましく言うのでした。

▲待庵 出典:ZUN / PIXTA