車いすバスケットボール日本代表の鳥海連志選手は、リオデジャネイロパラリンピックで使っていたものより車いすの座面を20センチ高くしたり、強い体幹とバランス感覚が必要なティルティングを使いこなすなど「よくも悪くも常識はずれ」を実行して、東京2020パラリンピックではMVPを獲得した。そんな鳥海選手の考え方のベースになっているものについて聞いてみました。

※本記事は、鳥海連志:​著『異なれ -東京パラリンピック車いすバスケ銀メダリストの限界を超える思考-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

「別のやり方を考える」という思考法

僕が常識にとらわれない考え方をするようになったのは、育った環境が大きく影響していると思う。

右手の指が4本、左手が2本しかなく、両下肢が変化した状態で生まれた僕は、生後4カ月から「菜の花保育園(現在はこども園)」にお世話になっていた。父は遠方に単身赴任中。年子の兄と、障がいのある僕の面倒をひとりきりで見ていた母に、障がい者保育を実施していた同園の園長先生が「一緒に育てていこう」と声をかけてくれたらしい。僕は学童保育も含め12年間、この“菜の花”で育った。

幼い頃から活発だった僕は、山を切り開いて作った広大な園内を、健常児の友達と一緒に駆けずり回っていたらしい。母と園長先生はそんな僕を見て「行動を制限せず、やりたいことを見守ろう」と方針を立て、興味関心を持ったものはすべてやらせてくれた。

3歳でひざ下を切断し、義足をつけた僕はさらに活発になり、病院の中で走り回ったり、2メートル近い壁から飛び降りたり、兄や友達と取っ組み合いのケンカをしたり……。野生児のように暴れまわっていたら、5歳にして腹筋が割れていたという。

そのように育てられたおかげか、僕は「みんなができることは自分にもできて当たり前」というマインドで年を重ねた。両親や園の先生たちは、僕が「やりたい」と言ったことに対して「それは難しいんじゃないかな」というようなことを一切言わなかったし、うまくいかないことがあったときには、両親は「別の方法を考えてごらん」と繰り返し励ましてくれた。

指に欠損がある僕は、左手の握力が弱い。でも、登り棒は左腕で棒を抱え込んでバランスをとりながら、右腕と脚の力で登ったし、鉄棒は左手首を引っ掛けて逆上がりもできた。

その他も挙げればきりがないが、人とやり方は違えど、たいがいのことはできるようになっていたし、できて当たり前だと思っていた。

車いすバスケだと、左手でパスを受けるときは、一度パスをはたき落としてからボールをキャッチしたり、右手で左側にドリブルをしながら、左方向にカットインしていくプレーもやったりする。

この「別のやり方を考える」という思考法は、僕の身に染みついていると言っていい。

サッカーもドッジボールもバスケも、友達や兄と一緒になんでもやった。もちろん、健常者に比べたらうまくいかないこともあるけれど、だからといって引け目を感じることは一度もなかった。

走るのは遅い。サッカーも苦手。でもバスケはちょっと得意。

ただそれだけのこと。「障がいがあるからできない」とは考えない。健常者であろうと障がい者であろうと、人には誰にだって得意なこと、不得意なことがあるのが当たり前。

だから、誰もやったことのない20センチの座面上げや、ティルティングを「できる」と信じて疑わなかったのだ。

僕に「できる」と教えてくれた、両親と菜の花の先生方には感謝してもしきれない。

▲「別のやり方を考える」という思考法 イメージ:Aladdin / PIXTA