第二次世界大戦で日本はポツダム宣言を受諾しました。これを指して「日本は無条件降伏をした」と言われることがよくありますが、降伏文書をきちんと読むと、日本は条件付降伏をしたことがわかるのだと、評論家・情報史学研究家の江崎道朗氏は指摘しています。

ポツダム宣言受諾で責任回避に走る日本のエリート層

1945年8月14日の23時、日本は中立国のスイス・スウェーデン経由で、連合国側にポツダム宣言の受諾を通告しました。

▲1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン 出典:アメリカ国立公文書記録管理局(ウィキメディア・コモンズ)

しかし、それで戦争が終わったわけではありません。

国際法上、戦争状態が終結するのは、戦争当時国間で講和条約が締結され、その条約が発効した時点です。日本側には、連合国側と停戦協定を結んで各地の戦闘を終了させるとともに、講和条約締結に向けた作業を進める必要がありました。

この作業は非常に重要です。例えば、ヨーロッパと中東の紛争が未だに続いているのは、第一次世界大戦の戦後処理に問題があったからです。

しかし、当時の日本の指導者たちは、停戦交渉に一丸となって立ち向かったわけではありませんでした。9月2日、停戦協定たる降伏文書に外務大臣として調印した重光葵(しげみつ まもる)は、次のように書き残しています。

▲降伏文書調印1945年9月2日、中央で署名を行っているのが重光葵外務大臣 出典:ウィキメディア・コモンズ

降伏文書調印の代表使節を、何人にするかについて、少なからず困難があった。(中略)戦争が一日にして止んだ当時の、日本指導層の心理状態は異常なものであった。戦争の終結、降伏の実現について責任を負うことを極力嫌忌して、その仕事に関係することを避けた。この空気において降伏文書の調印に当たることは、公人としては破滅を意味し、軍人としては自殺を意味する、とさえ考えられた。[『昭和の動乱』下 重光葵 中央公論社/1952年]

米軍艦艇ミズーリ号上で行われた降伏文書調印式には、全権代表として軍から梅津美治郎(うめづ よしじろう大)将、政府からは重光葵が出ました。近衛文麿以下、候補に挙げられた重臣たちが、敗戦の責任をとることを嫌って全権代表になることを拒否して逃げたため、やむなく重光が任を負ったのです。

昭和天皇は、連合国側に「天皇処刑論」を唱える動きがあることを知りながら「わたしのことはどうなってもかまわない」と仰せられ、ポツダム宣言の受諾を決断しました。

しかし、当時の日本のエリート層は、動揺と責任回避の渦中にいました。

4月に内閣を組織していた鈴木貫太郎らは、皇族を総理大臣として担ぐことで終戦工作を乗り切ろうとし、8月17日、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣が発足します。重光葵は同内閣の外務大臣でした。

終戦内閣である東久邇宮内閣には、3つの責務がありました。

第一の責務は停戦です。日本軍は満洲や中国、太平洋の諸島、東南アジアといった広範囲に散在していました。すべての場所で確実に停戦を行う必要がありましたが、一般国民が皇室を素直に崇拝していたことをもって、無事にこの責務は果たされます。昭和天皇の御聖断があればこそ、軍も一部の例外を除いて矛を収めました。玉音放送が外地にも一斉に伝えられるとともに、昭和天皇はまた、皇族を使者として各地に送りました。

第二の責務は、終戦に必要な手続きを完了させることでした。

8月15日、連合国最高司令官に就いたダグラス・マッカーサーは、終戦手続きのために代表をフィリピンに派遣するよう日本に要請します。当時、マッカーサーの司令部はフィリピンのマニラにありました。参謀次長・河辺虎四郎中将と外務省調査局長・岡崎勝男ら数名が派遣され、後日正式に調印する「降伏文書」の写しを持って帰りました。

この「降伏文書」の条文を忠実に実行すること、つまり「終戦条件であるポツダム宣言の実行」が第三の責務でした。

日本は“無条件”降伏はしていない

降伏文書は、日本側と連合国側の合意文書です。つまり、日本と連合国の双方が守る義務が明記されている文書です。ポツダム宣言受諾を指して「日本は無条件降伏をした」と言われることがよくありますが、降伏文書をきちんと読むと、日本は条件付降伏をしたことがわかります。

▲日本の降伏文書 出典:7maru / PIXTA

降伏文書は7つの条項から成っています。

その第一は「一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏」となっています。ポツダム宣言が第13条で述べていることを踏まえた条項で、「日本国」でも「日本政府」でもなく、あくまでも「軍隊」の無条件降伏です。

ルーズヴェルト政権からトルーマン政権に変わり、少なくともポツダム宣言声明時のアメリカ政府は、「軍隊」の無条件降伏が講和の条件であるということを降伏文書に記したのです。

降伏文書において特に理解しておくべき極めて重要な点は、統治の問題でしょう。降伏文書は、「直接統治」つまり連合国軍による日本支配ではなく、「間接統治」つまり日本政府による統治を認めています。

条項の第三で降伏文書は、日本国大本営に対して、自分の指揮下にある軍隊に無条件降伏を命じるよう指示しています。連合国司令官が直接、日本の軍隊に命令を発信しているのではありません。

条項の第四は、日本政府は官僚や軍に対して、連合国司令官の命令にきちんと従うよう命令せよ、とし、連合国司令官は日本政府に委任して発令させる、としています。連合国司令官が直接命令を下すわけではありません。

日本政府を通じて命令を実行させるよう要求しているのですから、これは間接統治ですし、日本政府を交渉相手として認めるということでもあります。

ドイツの場合は、ナチス政府が崩壊したのちに降伏しました。連合国軍によって政府の不在が宣言され、分割占領されて直接「軍政」が敷かれることになりました。ドイツの状況と日本の状況は大きく違っていた、ということは知っておく必要があります。

また、条項の第五は、ポツダム宣言を誠実に履行すると約束し、そのために必要なことを連合国司令官や他の連合国代表が要求した場合には、日本側が命令を発して措置を取ること、としています。そのポツダム宣言は第5条で「われわれの条件は次の通りである。われわれはこの条件から離脱することはない。これに代わる条件はない」としていました。

ポツダム宣言が伝えられた当時の外務大臣・東郷茂徳は「条件は次の通りとしてあるのだから、無条件降伏を求めたものではないことは明らかだ」と受け止めていました。

重光葵もまた「第一、軍隊の無条件降伏であって、(中略)ドイツの場合と異なり、日本政府の存立は否定したものではなかった。のみならず、日本が将来国家としても、また国民としても生活し得るために、原料の供給等を保障したものであった」と述べています。

※本記事は、江崎道朗:著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集したものです。