第二次世界大戦後の日本に対して、実質的にはアメリカのルーズヴェルト政権が占領政策をつくったとも言えるわけですが、そこには共産党の影響が大きかったことが判明したのは、機密文書のヴェノナ文書が公開されたからです。評論家・情報史学研究家の江崎道朗氏が、今まで隠されていた近現代史を教えてくれました。

CIAの前身はソ連の工作員の巣だった戦略諜報局

1942年以降のアメリカは、あらゆる省庁に共産党員が多かれ少なかれ浸透している状態でした。

当時、重要な省庁だった農務省、資金を握る財務省や予算局、対外政策に関わる国務省、外国経済局、WPB、OSS、OWIなどには特に集中的に浸透していました。

なかでも注意しておきたいのがOSS、つまり戦略諜報局への浸透です。OSSの前身は日米開戦5カ月前の1941年7月に設立された大統領直轄の統一情報調査局(COI)で、1942年6月にOSSに改称されました。OSSは、世界各国の状況を研究し、戦争の遂行計画だけでなく、戦後の統治の仕組みまでを考える対外情報機関でした。

ルーズヴェルト大統領は、第二次世界大戦を通じて、イギリスに代わってアメリカが世界の覇権国家となることを見据えていました。

▲フランクリン・ルーズベルト 出典:ウィキメディア・コモンズ

OSSは、他の省庁から「公平で正確な情報源」として頼られていた機関でした。情報機関という機関の性質から任務の機密性が高く、当時はその実態が知られていませんでしたが、現在では共産主義者の浸透ぶりが明らかになっています。

OSSの長官は、1945年9月の解散まで一貫してウィリアム・ドノバンという軍人が務めましたが、副官の筆頭格だったダンカン・リーという人物はソ連の工作員でした。ダンカン・リーは、ドノバン長官のもとに集まる機密書類をすべて読むことができる立場にいました。

しかも、このダンカン・リーは、OSS日本部門の責任者でした。ダンカン・リーの主導の下、OSS日本部門によって、東京裁判、神道を弾圧する神道指令、憲法改正、教育制度の改悪といった戦後の対日占領政策はつくられたのです。

実質的にルーズヴェルト民主党・共産党連立政権が、対日占領政策をつくったとも言えるわけですが、共産党の影響がそれほど大きいことが判明したのは、ヴェノナ文書が公開された以降のことです。

「日本に憲法を押し付け、軍隊を解散に追い込むなど、不当な占領政策を強いたアメリカはけしからん」と怒る方がいますが、正確に言えば「ルーズヴェルト民主党政権と、米国共産党によって、日本は不当な占領政策を押し付けられた」ということになるのです。

敗戦後の日本の命運を決定したのは、勝者のアメリカでしたが、そのアメリカに大きな影響を与えていたのがソ連だったわけです。

ちなみに、OSSを母体として戦後につくられた対外インテリジェンス機関が「CIA(中央情報局)」です。CIAという機関が、もともとソ連の工作員の巣だったということは知っておくべきでしょう。

ソ連による“日本を降伏させない”工作

戦時中、アメリカのルーズヴェルト政権は、日本に対して「無条件降伏」を求めていました。日本の奴隷化を意味しかねない「無条件降伏」に応じるわけにはいかないことから、当時の日本政府も軍部も徹底抗戦を叫ばざるを得ない状況に追い込まれていました。

ソ連の対日参戦は1945年8月8日です。5月8日のドイツ降伏からぴったり3カ月後でした。ドイツ降伏から2カ月または3カ月でソ連が対日参戦することと引き換えに、アジアの莫大な領土と権益を与えるという「ヤルタ密約」通りの、その期限最終日です。

▲1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン 出典:アメリカ国立公文書記録管理局(ウィキメディア・コモンズ)

翌8月9日から、日本がポツダム宣言を受諾した8月14日まで、実質わずか6日間でソ連は、外モンゴル、南樺太、千島列島、満洲の港湾と鉄道の事実上の支配権を手に入れました。なお、ソ連は日本が降伏したにもかかわらず8月22日まで対日戦争を続けました。北方領土の不法占拠は、この時に起こったのです。

満洲は中国大陸で最も工業化した地帯でした。日本が開発したインフラがあったからです。ソ連は、この豊かな満洲の実権を握るとともに、日本軍が残した大量の武器弾薬および工場も手に入れます。軍事物資の一部は中国共産党に渡りました。

ソ連はまた、対日参戦の準備という名目で、大量の食糧・燃料・資材をアメリカから獲得しています。さらにアメリカは、終戦時までに700隻以上の小型戦艦の船団をソ連に提供し、乗組員の訓練も請け負っています。ヤルタ密約によって、ソ連は濡れ手に粟の状態でした。

▲対日戦勝を一緒に祝う米ソの海軍兵 出典:ウィキメディア・コモンズ

5月にドイツが降伏したことから、日本の降伏はもはや時間の問題でした。そこでソ連は、ソ連参戦の準備が整うまで日本を降伏させない、という工作を行いました。

参戦前に日本が降伏してしまえば、ヤルタ密約で合意した領土や利権が得られなくなるからです。すでに軍事的に“死に体”の日本を、できるだけ降伏させずにおくことが必要でした。