「ヴェノナ文書」「リッツキドニー文書」などの機密文書の公開により、 さまざまな事実が明らかになっています。世界の再構築について話し合われたヤルタ会談。現代世界を形作った会談においても、日本人に知られていない真実があったと評論家・情報史学研究家の江崎道朗氏が語ってくれました。

ヤルタ会談はソ連の圧倒的な一人勝ち

ソ連の秘密工作は、日米開戦だけでなく、終戦処理、つまり第二次世界大戦後の国際秩序と日本の命運に対しても深刻な影響を与えました。

その一つが、ヤルタ会談です。

このヤルタ会談の評価は、ヴェノナ文書の公開と研究を踏まえて、大きく変更されるべきなのです。

▲会談が行われたリヴァディア宮殿 出典:Mykola / PIXTA

1945年2月のヤルタ会談開催時には、ドイツと日本の敗北は目前でした。英米ソの三国の優位は決定的で、戦後の秩序を思うままにできる状況にあった三国は、それまでの世界秩序をリセットして、一からつくり直す会談を行います。

ヤルタ会談でのルーズヴェルト、チャーチル、スターリンの決定が、その後の全世界の人々の運命を決め、その影響がいまだに続いているわけですが、会談の議題は、次のようなものでした。

  • どこに国境を引くか
  • どの地域、どの資産を誰が取るか
  • それらの決定によって、人民をどこに動かすか
  • どの政治勢力がどこを治めるか
  • どのような形態の統治になるか(自由主義か共産主義か)
  • 戦争を防止し、正義を保障する国際機関の創設

国際機関の創設は、第一次世界大戦後に国際連盟を提唱したウッドロー・ウイルソン大統領の後継者を自認するルーズヴェルトにとって、自らのレガシー(伝説)を後世に残すためにも重要な課題でした。

政治家の多くは、歴史に名を残したいという名誉欲が強く、自らの業績を傷つける失敗については隠そうとする習性を持っているということは知っておくべきでしょう。

それ以外の議題は、戦後の世界地図を決める、ということです。特に、ドイツ、ポーランドなど東欧諸国、満洲(中国)を誰が統治するか、つまり、アメリカ主導の自由主義とソ連主導の共産主義のどちらに入れるかが焦点となりました。結果は圧倒的にソ連の一人勝ちです。

まず、ポーランドに対しては、ワルシャワ蜂起の失敗のまま、住民の意思とは無関係に、一方的な布告と暴力、脅迫によって共産主義政権が押し付けられます。他の東欧諸国も次々と共産化することとなりました。

ラトビア、エストニア、リトアニア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、アルバニアはソ連の支配下となり、チェコスロバキアは数年間の抵抗の後に屈服し、東ドイツもソ連の支配下となります。

アジアでも、中国、モンゴル、北朝鮮、ヴェトナム、カンボジア、ラオスが共産化します。英米は軍事的には圧勝するわけですが、結果として、バルチック海から太平洋へ、さらにはラテンアメリカまで共産圏が広がることになります。

ソ連の歴史家ミハイル・ヘラーとアレクサンドル・ネクリッチは共著『Utopia in Power(権力のユートピア)』(Hutchinson/1987年)のなかで「アメリカとイギリスはヤルタにおいて、ソ連帝国形成に対する事実上の承認を与えた」と述べています。英米は外交的にソ連に敗北したのです。

これほどの外交的敗北は、実は歴史上に例がありません。

ヤルタ会談における史上最大の外交的敗北については、対ソ姿勢において、アメリカのルーズヴェルト大統領の責任が大きかったと言えるでしょう。

イギリスのチャーチル首相は、ドイツ崩壊によって起こるだろう勢力不均衡を予見して、ソ連に対する警戒を強めていました。チャーチルは、ナチスを倒しても別の専制的独裁者の手に欧州を渡すだけだと考えていたのです。その後、チャーチルはソ連の膨張に備えるよう西側諸国に呼びかけ、1949年にはNATO(北大西洋条約機構)を発足させます。

一方、アメリカのルーズヴェルト政権は、ソ連の台頭をむしろ歓迎していました。

アメリカ外交団を仕切ったアルジャー・ヒス

『スターリンの秘密工作員』(スタントン・エヴァンズ、ハーバート・ロマースタイン:著)によれば、ヤルタ会談に乗り込んだアメリカの外交団のメンバー構成は、極めて異常なものでした。ソ連の台頭を歓迎するルーズヴェルト大統領の健康状態は最悪で、まともな外交ができる状態ではありません。

側近中の側近ハリー・ホプキンスは、ソ連工作員だったという確証こそないものの、イスハク・アフメロフというソ連工作員から「アメリカ内の最重要なソ連の戦時工作員である」と名指しされています。国務長官のエドワード・ステティニアスは、就任わずか2カ月でソ連に関してはまったくの素人でした。

▲ハリー・ホプキンス 出典:ウィキメディア・コモンズ

ソ連に関する知識があるのは、通訳のチャールズ・ボーレン、ルーズヴェルトおよびホプキンスと懇意にしていたアヴェレル・ハリマン駐ソ大使だけでした。この状況の中、ルーズヴェルトが特別に指名して連れて行ったのが、アルジャー・ヒスという国務省職員です。

▲下院非米活動委員会で証言するアルジャー・ヒス 出典:ウィキメディア・コモンズ

ヒスは、ヴェノナ文書の公開によって、ソ連の工作員だったことが判明しています。省庁をまたがって形成されていた、ハロルド・ウェアという共産党員をリーダーとする地下組織「ウェア・グループ」のメンバーでした。

ヒスは当時、無名の一官僚に過ぎず、ルーズヴェルトがヒスを知っていた証拠もなく、直々に指名した経緯も不明です。ただし、誰かが何かしらの意図をもってヒスをルーズヴェルトに推薦したことだけは確かでしょう。

『スターリンの秘密工作員』は、ステティニアス国務長官の日記と「ステティニアス文書」を調査したところ、実際にはヒスがヤルタ会談において極めて重要かつ広範な役割を果たしていたことが明らかになった、としています。

ヒスは、ヤルタ会談において常にステティニアス国務長官と一体で動き、ステティニアスはあらゆる場面でヒスに頼り切りでした。ヒスは、合衆国政府を代表する権威ある立場で、会議の席上で発言していました。ヒスが「国務省としてはこうである」と発言すると、あとからステティニアスがその発言をオウム返しに使うといった状態だったのです。

ヒスこそは、ヤルタ会談でのアメリカの外交団の要でした。にもかかわらず、ヤルタ会談を仕切っていたのはヒスだった、ということはほとんど問題にされずにきました。意図的に隠蔽されてきたとみるべきでしょう。

※本記事は、江崎道朗:著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集したものです。