小野寺信、樋口季一郎、藤原岩市――世界から称賛され、恐れられた3人の帝国陸軍軍人を通じて、大日本帝国のインテリジェンスの実像に迫る話題の新刊『至誠のインテリジェンス 世界が賞賛した帝国陸軍の奇跡』(著者・岡部伸)。その出版を記念して2022年2月26日に行われた講演会(主催:英霊の名誉を守り顕彰する会)の内容の一部を特別公開。

豪華な顔ぶれがゲストとして参加した講演会

2022年2月22日に小社より発売された岡部伸氏(産経新聞論説委員)の新刊『至誠のインテリジェンス 世界が賞賛した帝国陸軍の奇跡』では、「枢軸国側情報網の機関長」と連合国に恐れられ、ヤルタ密約の情報をキャッチした小野寺信(まこと)、2万人ともいわれるユダヤ人を救い、ソ連軍の侵攻から北海道を守った樋口季一郎、インドの独立運動を支援するなどアジアの解放に尽力した藤原岩市という、3人の帝国陸軍軍人の活躍が紹介されています。

同書の発売を記念して2月26日に行われた岡部伸氏の講演会には、樋口季一郎の孫の樋口隆一氏(指揮者、明治学院大学名誉教授)、藤原岩市の女婿の冨澤暉氏(第24代陸上幕僚長)、小野寺信の孫の小野寺正道氏(会社員)という豪華な顔ぶれがゲストとして参加し、会場は大いに盛り上がりました。

▲当日の講演会の様子

ここでは、そのなかから冨澤氏の講演内容の一部を特別に公開します。

冨澤氏の義父・藤原岩市(最終階級は中佐、戦後陸将)は、大東亜戦争開戦前夜にタイに赴任して「F機関」(Fはフレンドシップ、フリーダム、フジワラの頭文字)と呼ばれる特務機関(諜報や政治・経済工作などの特殊任務を担当した機関)を組織し、アジアの民族解放工作に奔走した人物。

特にインドの独立運動においては、インド国民軍(INA)を創設し、ドイツに亡命していた独立運動のリーダー、チャンドラ・ボースをそのトップに迎えるなど大きな成果をあげました。

そのため、今日においてもインドでは「インド独立の父」チャンドラ・ボースと並んで「インド独立の母」と称えられていますが、残念ながら多くの日本人はその事実を知りません。

講演会では、そんな藤原岩市の知られざる魅力や人柄について、身内ならではの視点で冨澤氏にお話していただきました。以下は、当日の講演内容を冨澤先生ご自身の手でまとめていただきました。

藤原には語学力もインテリジェンスの技術もなかった

樋口・小野寺両将軍はともに陸軍幼年学校出身にして、ロシア語・ドイツ語等に堪能、若い時代から外国勤務体験のある方でした。一方、中学出身43期100名(同期の幼年学校出は150名)の1人であった藤原は、30名の中国語専攻組に回されましたが、その中国語も得意でなく、小中隊長時代の満州勤務以外に外地体験の全くない人物でした。

▲藤原岩市 出典:ウィキメディア・コモンズ

彼自身もそれを良く承知しており、なんとしても作戦参謀になりたいと希望したようですが、先輩に呼ばれて参謀本部に来たとき、腸チフス菌保持者のため皇族の居られる作戦課には置けないと弾き出され、希望せぬ第8課(謀略・諜報担当)に回されたそうです。

8課での初めの任務は、近く南方作戦が始まるときに、派遣各軍に宣伝部隊を付ける準備でした。彼はそのため神田に研究所をつくり速成の勉強をし、また南方に単身私服旅行し現地研究をしておりました。

ところが開戦前3か月の昭和16年9月に突然、8課の先任将校から「タイへ行き、マレー作戦時の特務工作を準備せよ」と言われ驚きます。

語学力も情報技術もない自分が、それをやり遂げるには「至誠と情熱と仁愛」しかないと悟り、自宅近くの松陰神社で祈念してこの役を引き受けました。

▲吉田松陰 「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」という『孟子』の一節を好んだといわれる 出典:山口県文書館(ウィキメディア・コモンズ)
▲吉田松陰とその門人を祀る松陰神社(東京都世田谷区) 出典:Masa / PIXTA

 藤原がそれでも「シナ事変の二の舞だけは踏むまい」と誓ったことに違いはないですが(※)、その当時から大東亜共栄圏というものをどこまで信じていたのかは不明です。東条首相自身が、昭和18年(1943年)に来日したチャンドラ・ボースと会談して直接話すまでは「インドの独立」など考えていなかった時代の話です。

※「シナ(支那)事変」はいわゆる日中戦争のこと。当時日本と中国(中華民国)は、北京近郊の盧溝橋で起こった両国軍の小競り合い的な衝突(1937年7月の盧溝橋事件)をきっかけに、互いに宣戦布告することなくなし崩し的に戦争状態に突入し、終戦の見込みもなく泥沼化していた。(編集部注)