戦後に“無念”を綴った軍人たち

藤原の準備した宣伝隊事業は、昭和16年夏に8課に着任した陸士同期の桑原長少佐に受け継がれ、大東亜戦争勃発とともに南方戦線で展開されました。

結論から言うと、この事業は陸軍内部でも不評で、動員された文化人たちにも不評でした。

それでも、桑原は「ジャワ宣伝隊など成功したところもある」といって藤原の準備の功績を評価する人物でした。つまり、大本営で彼が企画したこの宣伝隊構想は失敗し、タイ武官の田村浩大佐らが企画した「マレー特務機関」のプレーヤーとして、藤原は成功したと言えます。そのジャワ宣伝隊に居た私の父・冨澤有為男(作家)が、当時から藤原・桑原と知っていた縁で、私ども夫妻が今あることも事実です。

▲冨澤暉氏の父で芥川賞作家の冨澤有為男

一方、宣伝隊を担当した桑原長氏は、大本営陸軍部報道班員も兼ねていたのですが、海軍と競争で「勝った、勝った」の虚偽情報を出す仕事に疑問を感じ、陸軍部報道班長に何度も直言したため、満州の師団参謀に左遷されてしまいます。

戦後、藤原も桑原も戦争に負け、そのうえ自分のやった仕事が全く評価されない状況下で、その無念の思いを、紙もインクもない時代に、雑用紙に鉛筆で書き続けたようです。

藤原が書いた文は、彼が自衛隊を退官したあとの昭和41年に『F機関』として原書房から発行され、それなりに売れて評価されましたが、桑原の書いたものは、桑原長33回忌時(平成元年)に生家に戻った彼の弟・桑原安正氏(陸士51期‥元陸将補)により発見され、平成8年に編集:桑原安正、発行者:桑原文子(長氏未亡人)の名で出版されました。しかし、自費出版だったので、世に広まることはありませんでした。

安正氏が自衛隊第2連隊長(高田)の頃に、部下だった長谷川重孝氏(元東北方面総監)からこの書を薦められた私は、これを戦史研究家に広めたくなり「もう少し在庫はありませんか」とお聞きしたら、編集された故安正氏の御子息である桑原一雅氏が「私が自費で増刷します」と言って更に数百冊作ってくださいました。

戦史研究家方にその大部を配り高評を得たのですが、本日その桑原一雅さんが在庫10冊を待って来ておられますので、ご興味のある方は貰って帰り、ぜひ読んでください。これは実に面白い本です。

旧日本軍と自衛隊に共通する課題とは?

岡部さんがご著書で紹介されている、小野寺・樋口・藤原の3軍人が、本のタイトルにもなっている「至誠のインテリジェンス」で立派な成果を残したことはその通りだと思います。しかし、「日本が情報と兵站の軽視で負けた」ということもまた事実です。

なぜ日本はこのインテリジェンスを活かせなかったのでしょうか。

  1. 作戦参謀たちが「我はかく為すべし、敵はかくあらん」と増長慢になっており人事も作戦参謀重視の対応をしていたこと
  2. 情報参謀の中でも独・ソ連・英米・中国担当で見方も違い意見が合わないことが多かったこと
  3. 幼年校出身・中学出身の軋轢も加わったこと

などがあったと思います。翻って現在の自衛隊はどうでしょうか。

世界も、自衛隊の情報部門も小さくなったので[2.]の情報部内の意見不一致はもはや無くなったと思いますが、「情報軽視・作戦重視」の傾向は今なお残っているようで、早急に直すべきことだと思います。

日本人よ「フジワラを知っているか?」

藤原の人となりを一言でいうと、日本人・外国人、男・女を問わず兎も角「他人にモテる人物」でした。

私の結婚当初、藤原がよく銀座のキャバレーに連れて行ってくれたのですが、若くて私服の私は全くもてず、背が高く将軍の制服を着た禿頭の藤原が、女給さんたちに圧倒的にモテていたことを思い出します。

また、たくさんのインドの人の中には、いろいろな宗教の方々が居られるのですが、藤原は言葉が通じないのに全てのインド人にモテていました。

パキスタンのチトラルという小公国の国王(パキスタン国会議員)は、日本人とみると「フジワラを知っているか」と聞いて日本人を厚遇するので、ヒマラヤ登山をする日本山岳連盟の人たちが皆「フジワラ」の名を覚えたと言います。

藤原は多くの人に愛情を注ぎましたが、自分に反抗し批判する人には、時に厳しい態度を示しました。しかし、相手の優れた点は評価し、自らを反省する雅量も持っていました。

自衛隊の調査学校(現情報学校)には、「智魂技」という藤原の字が大きな石に彫られて残っています。「自分は魂だけで情報をやったが、これからは(英国から学んだ)智や(米国から得た)技をも加えて情報活動を推進すべきだ」という藤原の気持ちを表したものであったと思います。