ロシアと西側諸国のあいだでバランスを取っていたウクライナ。しかし「オレンジ革命」により樹立されたユシチェンコ政権は、NATO加入を掲げロシア離れを図った。ウクライナが、ソ連崩壊後にロシアとの関係を悪化させる方向に動かなかった理由を、ロシアの軍事研究の第一人者・小泉悠氏が経済の視点から解説する。

※本記事は、2019年6月に刊行された小泉 悠:著『「帝国」ロシアの地政学 -「勢力圏」で読むユーラシア戦略-』(東京堂出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。

ウクライナ経済に影響をもつロシアの天然ガス

ウクライナの独自性と、ロシアとの共通性は、ソ連崩壊後の同国の歩みにも独特の方向性を与えている。ソ連崩壊後、新生ウクライナはロシアの勢力圏からの脱出を目指したが、これは簡単なことではなかった。国際価格の数分の一という安価で供給されるロシア産天然ガスなくしては、ウクライナ経済は立ち行かないためである。

自国を通過するロシアの天然ガス・パイプラインから多額の通行料収入を得てもいること、多くの工業製品や農産物がロシアに輸出されていること、ヒト・モノ・カネの往来が活発なことなどを考えても、ロシアとの関係を簡単に絶つわけにはいかなかった。

▲ウクライナ経済に影響をもつロシアの天然ガス イメージ:Blue flash / PIXTA

軍需産業を例にとると、ソ連崩壊後のウクライナは、ロシアが必要とするさまざまな軍需品の供給国となったが、ウクライナもまたロシアの協力なくしては、これらの製品を生産することはできなかった。ソ連時代に築かれたサプライ・チェーンは複雑なものであり、ウクライナのような工業国であっても、単独で生産できないものが多かったのである。

したがって、1990年代のウクライナは、ロシアの勢力圏からそう急いで出て行こうとしていたわけでない。むしろ当時のウクライナは、思ったよりも早くNATOの東方拡大が始まったことと、それがロシアを苛立たせるであろうことに、かなり神経質な反応を示していたように見える。

米国務省の職員として長くウクライナに勤務し、最後は駐ウクライナ大使を務めたスティーブン・パイファーの著作から、象徴的な一節を以下に引用しておこう。

「(前略)ウクライナ指導部が恐れているのは、ロシアの勢力圏に入れというモスクワからキエフへの圧力が、NATO拡大によって強まることだった。ウクライナは(訳注:NATOの)拡大には反対ではないが、加盟までしようというわけではなく、さりとて将来そういうことになる可能性のドアを閉ざしたくもなかったのである。キエフが関心を有していたのは、NATOとのある種の特殊な関係であった」

したがって、ウクライナは当初、ロシアとの関係も悪化させないよう配慮しつつ、西側との関係深化も目指すという多角的な対外政策をとった。ソ連によって「占領」を受けたという立場をとり、CISにも加盟しなかったバルト三国とは異なり、ウクライナはソ連時代の過去を全否定することなく、CISにもオブザーバー参加するなど、ロシアに対して一定の配慮を示した(一方、バルト三国は最初から加盟を拒否した)。

他方、1994年にEUとの「パートナーシップおよび協力協定(PCA)」を、同年NATOとの間で「平和のためのパートナーシップ(PfP)」を結ぶなど、西側との関係も少しずつ進展し始めた。

ロシアからの脱却を図った「オレンジ革命」

2000年代に入ると、ウクライナはもう一歩踏み込んだ西側への接近路線をとるようになった。

当時のクチマ政権は、ウクライナのEUおよびNATOへの加盟を目指す方針を掲げると共に、ロシアの影響圏脱出を図る国々の協力枠組みであったGUAM(グルジア、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドヴァの頭文字をとったもの。一時期はここにウズベキスタンも加わってGUUAMとされていた)を常設機構化し、その事務局を首都キエフに設置した。

▲独立広場の記念碑とキエフの町並み 出典:Sun_stock / PIXTA

また、2003年には米国のイラク戦争を支持し、ウクライナ軍をイラクへ派遣する決定を行ったほか、安全保障政策の基礎を定めた「国家安全保障法」も、ウクライナのNATO加盟による欧州への統合を正式に謳うようになった。

2000年代初頭のプーチン政権は、米国との関係改善を積極的に模索しており、このような米露関係の下であれば、ウクライナが平和裡にNATO加盟を果たすことも不可能ではないと考えられたのである。

だが、このような動きは、やはりロシア側の懸念を呼ばずにはいられなかった。この当時、すでにNATOとEUの拡大がかなり進行しており、特に2004年には旧ソ連からもバルト三国が両機構への加盟を果たしていたから尚更であろう。

そこでロシアは、2004年のウクライナ大統領選挙において、親露的傾向の強い(というよりも、利権次第でどのようにでも取引ができると見られていた)ヤヌコーヴィチ首相を次期大統領候補として強力に支援し、ウクライナのNATO加盟など、親西側的な対外政策を掲げていたユシチェンコ元首相の対抗馬とした。露骨な選挙干渉である。

ロシアの支援もあって、11月に行われた大統領選ではヤヌコーヴィチが一度は勝利した。だが、ユシチェンコ候補の支持者が、これを不正選挙であるとして大規模な街頭行動に発展する。欧米諸国もこれに同調して選挙のやり直しを支持したため、最高裁判所の決定による超法規的措置で投票が仕切り直され、今度はユシチェンコ候補が勝利した。いわゆる「オレンジ革命」である。

ユシチェンコ政権はNATO加盟を掲げる一方、ロシアが主導する旧ソ連諸国内の経済統合構想「共通経済空間(EEP)」からも距離を置くなど、ロシア離れの姿勢が顕著となった。

▲2004年11月のオレンジ革命 出典:http://maidan.org.ua/(ウィキメディア・コモンズ)

ただしユシチェンコ政権は、間もなく政権内対立によってレームダック状態に陥り、2008年8月のグルジア戦争後には、ウクライナのNATO加盟問題は(グルジアともども)棚上げになったかに見えた。

さらに2010年の大統領選挙では、再びロシアの後押しを得たヤヌコーヴィチ候補が大統領に当選したことで、ウクライナを「失う」危険性は当面遠のいたかのように見えた。ヤヌコーヴィチ政権下で策定された外交政策の指針「対外政策ドクトリン」において「非ブロック主義」が明記され、NATO加盟方針が正式に取り下げられたことはその一つである。

さらにヤヌコーヴィチ政権は、期限切れが迫っていたクリミア半島のセヴァストーポリ海軍基地(ロシア海軍黒海艦隊の母港)の租借期限を25年延長することにも同意し、事実上、ロシアの消極的勢力圏下に留まる方針を示したのだ。