2021年8月、イギリスの警察当局は、現金を受け取ってロシア諜報機関に協力していたとして、ベルリンのイギリス大使館で働くイギリス人男性を逮捕した。KGB出身のプーチン大統領のもと、ロシアによるスパイ活動は冷戦期のピーク並みにエスカレートしている。近年、ロシアのスパイが関わったとされる事件で思い出されるのは、2018年に元スパイの親子が毒殺未遂されたイギリス、ソールズベリーの事件だろう。この事件の政治的背景を、元駐ウクライナ大使の馬渕睦夫氏と、元ロンドン支局長の岡部伸氏が、今一度語り合う。
※本記事は、馬渕睦夫×岡部伸:著『新・日英同盟と脱中国 新たな希望』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
なぜ大統領選挙の直前に起こしたのか?
馬渕 私はソールズベリーの事件に関しては、よくわからないところがあります。特に事件の起こったタイミングですね。なぜあんな時にわざわざ起こしたのかと思います。
当時はロシアの大統領選挙の直前でした(2018年のロシア大統領選挙は3月18日に実施。ソールズベリー事件が起こったのは3月4日)。常識的に考えれば、そういうことをするとすぐにバレて「プーチンはけしからん!」と国際的に非難されます。
それはロシア国内にも跳ね返ってきて、プーチン自身の大統領選挙にも、マイナスの影響を及ぼすのは必至ですよね。だから、なぜそのタイミングでやったのかというのがよくわからない。もしプーチンやロシアの情報機関の指示でやったのだとすると、やっぱりタイミングが悪すぎるというのが疑問のひとつです。
その関連でいえば、イギリスがなぜファイブ・アイズ以外、西側20カ国にも情報を流して、これら諸国もロシア外交官を一斉に国外追放することになったのかも疑問ですね。
それからもうひとつの疑問は、襲撃された元スパイが二重スパイだったかどうかはわかりませんが、わざわざ暗殺のターゲットにしなければならないほどの人物なのかということです。
更にいえば、今回なぜ暗殺ではなく未遂で終わったのか。わざと致死量を使わなかったのか、それともやり方が稚拙だったのか、GRUがそんなヘマをやるだろうか、といった疑問も出てきます。
これらの点が私にはよくわからないんですけれども、岡部さんはどうお考えですか?
岡部 僕はプーチンが直接というより、プーチンを崇拝する中堅の幹部が、プーチンの意向を忖度して命じたんじゃないかなと考えています。つまり、プーチンの権威を高めるために周辺が実行したのではないかと。
襲撃されたスクリパリ氏は、ロシアからすると相当な裏切り者です。スクリパリ氏自身が、のちに語ったところによると、彼はバルト三国のエストニアに駐在していた1995年、M16に二重スパイとしてリクルートされ、欧州に潜伏しているロシア人エージェントの情報などを提供し、見返りに10万ドルを受け取ったとされています。
スパイ映画に出てくるような、自分のスパイ仲間を西側に金銭で売る、という裏切り行為を働いたとして、スクリパリ氏は2004年にモスクワで逮捕され、その2年後、イギリスのためにスパイ活動を行った国家反逆罪で、禁錮13年の判決を言い渡されて服役します。
出てきたのは2010年のことで、例のアメリカで逮捕された「美しすぎるスパイ」の異名で有名になった、アンナ・チャップマンらロシアのスパイ団10人とのいわゆる「スパイ交換」で保釈されました。
その後、イギリスに亡命したわけですが、実はこのとき、スクリパリ氏と同じように「スパイ交換」で保釈されて、イギリスに亡命したロシアの元スパイがもうひとりいるんです。CIAに関係するイギリス企業に機密情報を流した疑いで、2004年に有罪判決を受けたイーゴリ・スチャーギンという軍事の専門家です。