1970年代半ば、わが国で「超能力ブーム」の火付け役になったのは、イスラエル生まれの自称・超能力者ユリ・ゲラーでした。今回は、理科・科学の達人にして『理科の探検(RikaTan)』編集長でもある左巻健男氏が、かつて一世を風靡したユリ・ゲラーの超能力について検証します。

※本記事は、左巻健男:著『陰謀論とニセ科学』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。

日本全国に念力を送り止まっていた時計を動かした!

彼が日本で超能力者としての地位を不動のものにしたのは1974年3月7日、日本テレビの番組『NTV木曜スペシャル』で、視聴者に「カナダから念力を送り、故障して動かなくなった時計を動かしてみせる」と宣言し、成功したように見えたときでした。視聴率が30パーセントを超えたので、テレビの前には数千万人がいたことでしょう。

動かない時計を握りしめた人が、仮に1割いたとしても、数百万人以上の視聴者が彼の念力を待っていたのではないでしょうか。

カナダからの念力が届くとスプーンが曲がるとも宣言していたので、スタジオに集められた少女たちがスプーンを手にしてこすっている場面が映りました。ところがスタジオでは誰のスプーンも曲がりませんでした。

司会の三木鮎郎さんが「とりあえずスプーン曲げの実験は止めまして、さっそく時計復活の実験に入りましょう」と先へと進めました。「スタジオに10台の臨時電話が引いてあるので、動いた人は電話してください」と呼びかけると、「動いた!」という電話がジャンジャンかかってきました。

これで一気に、ユリ・ゲラーは超能力者としてお茶の間のスターになったのです。

▲はたして本当に超能力で動いたのか…… イメージ:@yume / PIXTA

「時計動かし」は、当時の時計がゼンマイ式だということがポイントです。

この“マジック”をやったのは、3月という寒い時期でした。ゼンマイ式の時計には潤滑油が使われていますが、とくに寒い時期には油の粘りで歯車の動きを妨げている場合があります。

テレビの前で一生懸命、時計を握っていれば、やがて時計が温まり、固まっていた油が緩んできて動くようになるものが出てきます。暖かいコタツの中でなら、なおさらです。

百に一つ、千に一つが動き出したとしても、視聴者全体のわずか数パーセントが実証しただけで相当な数になります。

10台の臨時電話は鳴り止まなかったことでしょう。

スプーン曲げにもやはりトリックがあった!?

ユリ・ゲラーが、わが国でブームになった1974年当時、私はこのあたりの議論を、興味をもって眺めていた大学院生でした。教員になった1976年も、前年にユリ・ゲラーが再来日したこともあって、また超能力が話題になっていました。

職員室では、先生たちが「いろんな方法で、手品でスプーン曲げはできるんですよ!」などと話題にしていました。私は独りクールに装っていたので「左巻さんはロマンがない」などと言われたりしたのを思い出します。

当時は、ユリ・ゲラーに刺激されて多数のスプーン曲げ少年少女が登場しました。なかでもA少年が有名です。

A少年の技は、観客に背を向けて座り、手に持ったスプーンを何度か上下させたあとにポーンと放り投げると、落ちてきたスプーンはグニャリと曲がっていることを示すものでした。

ところが、1974年5月24日号の『週刊朝日』誌に掲載された「科学的テストで遂にボロが出た!“超能力ブーム”に終止符」は、マルチプルストロボの連続写真で、A少年のトリックを見抜いたものでした。投げる直前にスプーンを床や太ももや腹などに押し当てて曲げていたのです。

▲スプーン曲げにもやはりトリックがあった!? イメージ:midori_chan / PIXTA

『週刊朝日』誌の撮影のときには、写真うつりがいいように白い塗料が塗ってあったのですが、床に敷いた布に押し当てた場所には、白い塗料の痕跡が点々とあったといいます。

本人は「あの日、撮影のために何時間もスプーン曲げをやらされ、もうヘトヘトになっていました。最後には根負けし、すでに折れ曲がっていたスプーンを拾って投げちゃった」と認めました。疲労困憊しインチキをしてしまったが、いつもは本当に超能力で曲げていると訴えたいようでした。

これ以降、超能力ブームは急激に衰えていきました。