江戸の男の遊び場は吉原だけじゃなかった!江戸文化に精通する永井義男氏が、現在の文京区の根津神社、港区の氷川神社、墨田区の両国回向院、など江戸の各地に存在したといわれる「岡場所」を描く。

切見世だけの低級な岡場所

現在の東京都新宿区若葉三丁目・南元町は、都心の一等地といえよう。すぐ近くには、来日した国賓を迎える迎賓館がある。

ところが、江戸時代、この一帯には鮫ケ橋という岡場所があった。

つまり、現在の迎賓館のすぐ近くに、男の歓楽街があったことになろう。

しかも、鮫ケ橋は、切見世(きりみせ)だけの低級な岡場所だった。

切見世とは、平屋の長屋形式で、部屋は二畳ほどしかない。そこに遊女が生活しながら、客も迎えた。

いわゆる「ちょんの間(ま)」の情交で、時間は十~十五分くらい。線香をともして時間を計った。

揚代は安永(1772~81)ころまでは五十文だったが、天明(1781~89)以降は値上げして百文になった。

図1『三日月阿専』(二代南仙笑楚満人著、文政8年)、国立国会図書館蔵

図1は、高台から見おろしているところで、櫓(やぐら)の下に家屋が密集している場所が鮫ケ橋である。

道をへだてて、広大な屋敷があるが、ここは紀州藩徳川家の上屋敷である。

つまり、御三家の屋敷と道一本へだてただけの場所で、岡場所が堂々と営業していた。

江戸の町の猥雑さがわかる。

当時の武士も庶民も、こうした猥雑さには無頓着だった。むしろ、

「近くに岡場所があって、便利でいいや」

くらいの感覚だろうか。

子供への教育的配慮などは皆無だった。

なお、図1に描かれている紀州藩の上屋敷の跡地に、現在は迎賓館がある。

図2『岡場所考』(石塚豊芥子編、安政4年)、国立国会図書館蔵

図2は、鮫ケ橋の切見世を示している。赤丸が遊女のいるところなので、これを見ても、切見世が長屋形式なのがわかろう。

『岡場所考』(石塚豊芥子編、安政4年)は、鮫ケ橋について――

三ケ所とも局見世にて、至てがさつにて、無体に客を引込。うかりと入てこまる人多く有り。路地四ツ限りと而、九ツ迠も明てあり。女、風俗至てよろしからず。

と述べている。局見世は切見世のこと。

三カ所とも切見世なのは、図2からもわかろう。

鮫ケ橋の遊女はがさつで、ガラが悪かったようだ。低級とされたのもわかる。

切見世の入口の路地には「四ツ限り」と表示され、午後十時ころで路地の木戸を閉めることになっていた。

しかし、実際には九ツ(午前零時頃)ころまで、開いていた。

【用語解説】

•岡場所(おかばしょ)
公許の遊廓である吉原に対し、江戸市中にあった非合法の私娼街を岡場所といった。非合法とはいえ、岡場所は公然と営業していた。また、江戸市中にあることから便利で、しかも揚代も安い。下級武士や庶民が遊ぶ歓楽街は、もっぱら岡場所だった。

・揚代(あげだい)
遊女の料金のこと。吉原でも岡場所でも、揚代と言った。

『江戸の歓楽街』は次回2/19(水)更新予定です、お楽しみに。