新宿区若葉三丁目・南元町は都心の一等地。じつは江戸時代、この一体には鮫ケ橋という岡場所があった。しかもそこは切見世と呼ばれる低級な岡場所だったという。(前編)に続く(後編)。
切見世の内部
図3で、切見世の各部屋の内部の様子がわかる。
戸を開けると、狭い土間。土間をあがると、畳二枚分の広さしかなかった。
布団が折りたたまれているのが見えるが、押し入れがなかったからである。
客がいないときは入口の戸を開け放ち、中から遊女が、路地を通る男に、
「これさ、こう、こう、こう、町人さん、侍さん、これさ、息子さん、寄っていきな」
などと呼びかけた。
戯作『三日月阿専』(二代南仙笑楚満人著、文政8年)に、鮫ケ橋の遊女が連れ立って朝湯に行く場面がある。
どてらを着た三十五、六歳の、お清という女が、もうひとりと連れ立って路地を歩きながら、声をかける。
清「お吉さん、お吉さん、まだか、湯へ行かねえか、湯へ行かねえか。もう、いつもの金時屋さんが来てしまったから、四ツ過ぎと見える。さあ、さあ、一緒に歩(あい)びなせえ」
吉「おや、お清さんに、お辰さん。素敵と早起きだの。おいらは今朝がた、お客を帰して、やっととろとろとやったところだ。手水に行って、もうひと寝入りやろうというところだぁな。まあ、先へ行きな」
清「そうか、そんならおいらたちだけで行こう。しょにんな女だのう。ええ、今朝は滅法寒い。早く湯へ行って、温まろう」
金時屋は、小豆を砂糖で煮た金時豆の行商人であろう。切見世の路地まで、行商人はまわってきた。
四ツ過ぎなので、午前十時を過ぎている。 手水は、便所のこと。
「しょにん」は当時の流行語で、「意地が悪い、薄情」の意味。
それにしても、鮫ケ橋の遊女のガラの悪さがわかろう。
図4は、遊女が連れ立って湯屋へ行くところである。寒い時季なので、かなり重ね着をしている。
右に描かれている男は、台屋と呼ばれる仕出し料理屋の若い者。翌朝になって、丼や椀を回収しているところである。遊女は自分で料理などしないため、出前を頼むことが多かった。
なお、お吉の言葉から、ちょんの間が原則の切見世だが、泊り客をとることもあったのがわかる。
前出の『岡場所考』によると、泊まりの揚代は金二朱だった。
老中水野忠邦が断行した天保の改革にともない、天保十三年(1842)八月、鮫ケ橋の切見世はすべて取り払いとなり、その後も岡場所としての復活はなかった。
岡場所が廃止されたことで、鮫ケ橋はにぎわいを失った。
『日本の下層社会』(横山源之助著、明治31年)に――
とあり、江戸が東京になってからも、鮫ケ橋の低俗と貧窮は続いていた。