今回は、6月29日に二十歳を迎える梁瀬さんの今の心境について書いていただきました。
急に、世間の線引きによって「大人」と呼ばれるようになる。
この文章が世に出る頃、私は20歳になっている。はずだ。
今、私はカフェの片隅で、このエッセイを書いている。スマホに文字を打ち込みながら、私は焦っているのだ。
20歳。急に、世間の線引きによって「大人」と呼ばれるようになる。外側だけが、いつの間にか大人に近づいてきた。年齢相応の服を着て、それっぽい言葉遣いを覚えて、ちゃんとしている風の顔が上手くなっていく。けれど、ここまできても、未だに私は自分のことがよく分からない。
さっきカウンターで頼んだスープを、テーブルに置く時に盛大にこぼしてしまった。熱いし焦るし恥ずかしいしで、慌てて紙ナプキンを何枚も取り、しばらく無言で必死に拭いた。
顔を上げると、周りはひどく静かだった。まるで、「完成された大人の空間」のような感じ。パソコンを叩く規則的な音や、優雅にお茶の時間を楽しむ人たち。カウンターの向こうでは、店員さんが淡々と仕事をこなしていた。
その静寂の中で、1人でバタバタしている自分だけが、なんだかひどく不格好に浮いている気がした。
昔から「しっかりしてるね」と言われることが多かった
見た目のせいなのか、昔から「しっかりしてるね」と言われることが多かった。けれど、本当は全くそんなことない。いまだに自分の感情のコントロールさえ上手くできないし、疲れた帰り道に荷物が重いだけで涙が出てくるような、くだらないことで泣きそうになる子供のままだ。なのに、その言葉をかけられると、私はいつの間にか「しっかり者」の顔を作って笑ってしまう。
それだけじゃない。少し抜けている人を求められていると感じれば隙のある自分を差し出すし、人懐っこさが好まれるならそう振る舞う。気高い感じが似合っていると言われれば、いつの間にかそれらしくなるし、時にはその場を盛り上げるためにあえて損な役割を演じることもあった。
まだ重い体を無理やり動かして、久しぶりに学校へ行った中学生のあの頃。どうしても輪に入れない空気がそこにはあった。私の知らないところで、私の知らない噂が流れていて、それが真実として広がっていく。私の知らないところで、私ではない誰かが「私」として嫌われていくのが、たまらなく怖かった。誰からも嫌われたくない。私の周りから、また誰もいなくなってしまうのが怖い。だから私は、周りが勝手に作ったイメージや、その場その場で求められる空気に、自分を必死に合わせて、どうにかやり過ごすようになった。
だからといって、いつでも上手く立ち回れるほど私は器用ではない。期待に応えようと仮面を被り続けても、選択を間違え、派手にしくじることは日常茶飯事だ。
すべてが終わり、1人になった帰り道。ただひたすら落ち込む。私では無い「私」が嫌われてしまうことの辛さ。それなのに、心のどこかで「これは役割を演じていただけだから、本当の私が傷つく必要はない」と、歪んだ安心感に逃げ込もうとする自分もいる。
そんな矛盾に揉まれているうちに、心がすうっと冷えていく。悲しいはずなのに、どこか遠くから自分を冷めた目で眺めている感覚になる。
そんなことを繰り返しているうちに、気がついたらどれが本当の自分なのか分からなくなってしまった。
ついに大人になっても、自分を見失ったまま、何者にもなれないままで、この先もずっと歩いていくのだろうか。


梁瀬 鈴雅






