2022年2月にロシアによるウクライナ侵攻が始まって以来、日本国内でも連日その状況が報道されている。ロシアとウクライナの戦争は、いまだに終わりが見えないが、ウクライナという国そのものについても、現在でも日本の多くの人々に知られているとは言い難い状況であることも事実だ。
これまで40回近くウクライナを訪問し、ゼレンスキー大統領などの要人と直接対話をしてきたウクライナ研究の第一人者、岡部芳彦氏が知るリアルなウクライナと、あまり知られていない日本でのプロパガンダを紹介しよう。
※本記事は、岡部芳彦:著『本当のウクライナ -訪問35回以上、指導者たちと直接会ってわかったこと-』(ワニ・プラス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
「ウクライナに住むロシア人」はいない?
2013年から14年にかけて、EUとの連合協定締結を拒否したヤヌコービッチ大統領に反発する抗議デモが警察・機動隊と衝突した末に、同政権を失脚させたマイダン革命が起こりました。その隙をついてロシアがクリミアを占領し、東ウクライナでは実はロシア軍が主体である「親露派武装勢力」とウクライナ軍の間で戦闘が起こり、8年にも及ぶ戦争が始まります。
2014年8月のイロヴァイシクの戦い、2015年1月から2月にかけてのデバルツェボの戦いを経て、ロシア側に有利な戦況の下でミンスク合意が結ばれたものの、散発的な戦闘が止むことはありませんでした。
2009年から2013年のあいだに、東部のドネツクに計16回訪れましたが、少なくとも「私はロシア人だ」と自分から言う人に出会ったことはありません。もちろん、“多様な国”ウクライナなので、ロシアを支持する人もいるでしょう。ただ、少なくともウクライナ国籍者で「ウクライナに住むロシア人」だと言う人に会ったことは全くありません。
ドネツクは、現在ロシアが主張するジェノサイドとは縁遠い、長閑な地方都市に過ぎませんでした。ロシアに後押しされた一部の住民や社会のアウトサイダー、そして旧共産党幹部などが、その出世欲からドネツクとルガンスクに偽の共和国を作り、8年にわたり、この地のウクライナ人を抑圧的に支配してきたのが実態です。
また、2019年6月からは2つの人民共和国地域でロシアの国籍の付与、つまり旅券の「配布」も始まっており、プーチン大統領のいう、「東ウクライナのロシア系住民」は巧妙に作り出されてきたということになります。
また、その地域の子どもたちは、急に「人民共和国民」とされて、自分たちはロシア人だという教育を8年間も受けています。当時10歳だったとすると今は18歳となり、徴兵されて、マリウポリに送り込まれたりしています。
戦争の情報戦の下準備はかなり早くから・・・
マイダン革命が起こった2014年は、僕にとっても不思議で、またもどかしく、苦い経験が数多くあるとともに、多くのことに気づかされた年でした。
マイダン革命から7カ月ほどが過ぎた2014年9月9日、この日は僕の人生にとって、最悪な誕生日であったのでよく覚えています。7月17日にはマレーシア航空機が東ウクライナで撃墜され、情勢が混迷を深めるなか、永田町の衆議院議員会館では、あるロシア政治の権威とされる先生の講演がありました。
本当は、あまり気が進まなかったのですが、僕はウクライナに詳しいので、その講演後にコメントをしてくれと主催者に言われ、しぶしぶ参加しました。
その先生は、ロシア正教会を中心にウクライナ国内の宗教事情を話し始めたのですが、今ほどウクライナに詳しくなかった僕の目から見ても、かなり間違いの多い内容でした。親切心で間違っている箇所をいちいち指摘したかったのですが、あまりに多すぎたのと、学会での権威者ということもあり、人前で恥をかかせても可哀そうだなと思い、特に何も言いませんでした。
お話が終わると、次に出てきたのが、ロシア連邦国際交流庁駐日代表部長の肩書を持つ方でした。日本とロシアで2つの博士号を持ち、ヤポニスト(日本学者)を自称して、まあまあ上手な日本語を話すこの男性は、普段からやや自意識、自信過剰なところがあり、日露交流をしている日本人のあいだでも、あまり評判がよくありませんでした。
質疑の時間に入ったとたんに、したり顔で、ドネツクで撮影されたという5枚ほどの写真をクリップでとめて、聴講者に配り始めました。そして一言「ドネツクでは今ロシア語系住民のジェノサイドが起こっており、また全域が火の海で第二次世界大戦以後最大の人道危機が起こる」と言いました。
さすがにこれはないなと思ったのと、またドネツク州の広さを知っているのかと思い「戦闘自体は点と線で起こっており、さすがに全体が火の海はない」と言ったところ、気色ばんでロシア語交じりで反論してきました。
そこで「あなた、ドネツクに何回行ったことがある? 私はこの5年で15回以上訪問したが」と言ったところ、当然、彼は一度も行ったことがなかったのでしょう、押し黙ってしまいました。会合が終わって、スポーツマンシップにのっとってノーサイドで仲直りでもしておくかと、名刺を持って行ったところ、受け取りを拒まれ、両手を挙げて肩をすくめながら足早に去っていきました。
ただ、今考えてみると、ロシア側は、このころから「東ウクライナでロシア系住民のジェノサイドが起こっている」と日本でも繰り返し主張していました。今回の戦争の情報戦の下準備はかなり早い段階で行われていたのです。