祖母の亡き骸を前に売れることを誓った

俺が30歳になろうとしていたとき、大好きだったおばあちゃんが亡くなった。小さい頃から俺を可愛がってくれて、芸能界に入ってスターを夢見る俺を応援し続けてくれたおばあちゃんは、天寿を全うして天国へと旅立っていった。

そして、おばあちゃんの死の少し前から、子どもの頃はとても仲が悪かったうちの両親が仲良くなっていた。「この前、お母さんと2人で山登ってきたよ」と父親から聞いたときはびっくりしたものだ。あれだけ毎日、怒鳴り合いのケンカをして、いつ離婚してもおかしくないと思っていた夫婦が山登り?

年齢的なこともあるだろうが、どうやら母親のお母さん、つまり、おばあちゃんを我が家に住ませて面倒見ることを、父親が快諾してくれたことが大きかったようだ。

母方のおじいちゃんが亡くなってから、おばあちゃんは大阪で1人暮らしをしていた。だんだん歳を取り、体も不自由になっていくばかり。

年老いた親の面倒は長男が見ることが多いが、母の腹違いの兄がおばあちゃんの面倒を見ようとしなかったので、母親は父親に相談するしかなかったのだろう。川崎の実家で面倒を見れないだろうかという母の相談を、父親は二つ返事で受け入れたようだ。

自分が建てた家に義理の母親が一緒に住むとなったら気も使うだろうし、1週間ならともかく、365日となると疲れるだろう。だが、それを快く受け入れてくれた父親に、母は感謝したに違いない。それ以来、ケンカをすることも少なくなったようだ。

おばあちゃんが亡くなった日。「危ないから病院に来てください」と真夜中に病院から実家に電話があったそうだ。父親は黙って着替えて車を出し、母親を乗せて病院まで向かった。深夜に父親からの電話で、おばあちゃんが帰らぬ人となったことを知った。

「おばあちゃんが亡くなった。タクシー代を出してやるから、お前も今から来い」

中野坂上の風呂なしアパートを寝巻き同然の格好で飛び出し、タクシーでおばあちゃんの待つ病院へと向かった。亡くなったおばあちゃんは、とても小さく見えた。まだ温もりが残る体に抱きついて、朝まで泣いたのを覚えている。親にはとことん反抗したが、おばあちゃんにひどい態度をとったことは一度もない。おばあちゃんは、いつだって俺に優しかった。

亡くなったおばあちゃんは、日記をつけていた。俺は遺品を整理するタイミングで、おばちゃんの日記を読ませてもらった。日々の出来事を綴った、なんてことない日記の最後に、「大ちゃんが悪いことをしませんように」と書いてあった。

戦争や貧しい時代を経験してきたおばあちゃん。どれだけお金がなくても、笑顔を絶やさず一生懸命生きて、子どもを立派に育ててくれたおばあちゃん。

改造車に乗ったり、会社を辞めてショーパブに出て、朝方に泥酔して帰ってくる俺のことが心配で心配でしょうがなかったのだろう。俺は涙を流したまま「絶対に有名になるよ」と天国に向かってつぶやいた。