キックボクサーとして、新日本キックボクシング協会ウェルター級王座を取り、その後、1999年にタイで行われたラジャダムナン・スタジアムウェルター級王座を獲得。これは当時、ムエタイ史上4人目となる外国人王者という快挙であった。K-1のリングでは魔娑斗やブアカーオといったスター選手と死闘を繰り広げ、多くの格闘技ファンの気持ちを熱くした武田幸三。
引退後は俳優として、さまざまなドラマや映画、舞台に活躍の場を広げている彼は、現役時代に片目が見えないままリングに立っていた、というのは知る人ぞ知る話だ。しかし、それ以外にも多くの「クランチ=土壇場」を経験しているという。“まさに自分のためのような企画ですね”と笑う武田に、これまでの人生を振り返ってもらった。
初めての記憶は生まれた直後!?
武田幸三について書かれた『ラストサムライ 片目のチャンピオン武田幸三(森沢明夫/KADOKAWA)』『弱虫の美学(武田幸三×森沢明夫/大和書房)』を読むと、熱い気持ちや優しい人柄もさることながら、その記憶力にも驚かされる。そんな彼に幼少期、いちばん最初の記憶を聞くと、すごい答えが返ってきた。
「なんかこう……真っ暗な中をずっともがいてて、バッと明るくなる。その記憶があるんですよね。産道?ですかね。あるんです、その記憶がしっかりと」
1972年、東京都足立区西新井に生まれた武田。胎内記憶は4歳くらいまで残ってるといわれるが、自分が生まれる瞬間の記憶が大人になってからも残っている人は初めてだったので、驚いてしまった。そして、話を進めるうちに、彼が自分を大きく見せようとか、脚色して物事を話そうというような、いやらしい気持ちを一切持っていないことにも気づく。
「幼少期は……やはり5歳のときに自宅が火事になったのが大きいですね。あれがまず最初の土壇場だと思います」
火元は隣家だったが、運良く逃げ出した幼い武田は、自分の家が火に飲み込まれていくのを呆然と見ていた。その後、近くの長屋に引っ越した武田。しかし、ほどなくして父親が出ていってしまう。武田は幼くして母子家庭となったが、母親が悲壮感を表に出すことはなかったという。
「だって僕、週に6日も習い事をしてましたから。外食にも連れて行ってくれたし、そこでテーブルマナーも教わりました。決して裕福じゃなかったはずだし、不安もあったと思うんですけど、僕には片親ってことで劣等感を感じないようにしてくれてた。あと、それくらい年齢の男の子だから力が有り余ってるじゃないですか。だから寝る前に母親とプロレスごっこするんですよ、それがすごく楽しみでした」
普通であれば父親がやるようなプロレスごっこまで付き合ってくれた母。「カッコいいですよね」と話す武田はにこやかで、底知れない愛情が表情から伝わってきた。
イジメられたらすぐに転校、我慢する必要はない
小学校・中学校と、家が貧しいこと、そして納得がいかないことには先輩であろうと従わないこと、それらが原因で衝突を産んだり、一方的なイジメに近い仕打ちも受けたことがあったという。それぞれ置かれている状況は違うから一概には言えないと思うが、もし武田の前に、子どもがイジメの被害を受けている両親がいたら、どう声をかけるか聞いてみた。
「転校、それしかないですよ」
返答の速さと、回答の意外さに驚いていると、武田は言葉を続けた。
「そこにいる必要ないじゃないですか。その子にとっては学校が全てかもしれないけど、地球規模で見たら、日本のどこかの県の小さい町の出来事ですよ。だから、すぐ転校させてあげたほうがいい。その場所にこだわる必要はまったくない」
中学時代、バスケ部で文武両道を誇っていた武田は、上級生からいわれなき誹謗中傷を受け、実際に暴力も振るわれていた。
「僕は我慢していたけど、本当は我慢する必要なんかないんですよ」
強さを手に入れた武田の口から言われると、説得力しかないなと感じる。