2022年、アントニオ猪木が設立した新日本プロレスと、ジャイアント馬場が設立した全日本プロレスが50周年を迎えた。今も多くのファンの心を熱くする70~80年代の“昭和のプロレス”とは、すなわち猪木・新日本と馬場・全日本の存亡をかけた闘い絵巻だった。プロレスライター・堀江ガンツが1978年の“リアルファイト”を再検証する!

“金狼”上田馬之助の登場は、まさに衝撃だった。

力道山がアメリカから日本に持ち込んで以来、プロレスは日本人がベビーフェース(善玉)、外国人がヒール(悪玉)という図式が基本。当時の少年ファンたちも、悪いガイジンをやっつける、日本人レスラーたちを一生懸命に応援してきたはずだ。

それなのに上田ときたら、まだ髪の毛を染めた日本の男などほとんどいない時代に髪を金色に染め、竹刀を片手に悪の限りを尽くした。そして77年1月に新日本プロレス初登場を果たすと、よりによって悪の権化であるタイガー・ジェット・シンに加担し、アントニオ猪木に悪党ファイトで牙を剥いた。その姿は、まさに悪に魂を売った“売国奴(ばいこくど)”。

「日本人の風上にも置けないヤツだ!」と、日本中の憎悪を一身に集めることとなる。元祖日本人ヒールレスラーは、瞬く間に“国民的ヒール”となったのだ。

今でこそ、「悪役を貫き通した、真のプロフェッショナル」と高く評価されている上田馬之助。しかし、当時はリング上のキャラクターと、リングを降りたあとの人格が半ば同一視されていた時代。ヒールになるということは、私生活でも“悪役”として生きなければならないことを意味していた。

リングの上で仕事として悪いことをすると、義憤(ぎふん)に駆られた人たちから親類、家族に危害が及ぶ。家に物が投げ込まれるなど嫌がらせが頻繁に行なわれ、子どもたちはいじめに遭う。そのため、上田は家族をアメリカのフロリダ州ペンサコーラに住まわせ、日本とアメリカの二重生活を送っていた。

なぜ、そこまでして上田はヒールとして日本のリングに上がったのか。そこには「猪木、馬場に対する意地と怨念があった」と、元『週刊プロレス』編集長のターザン山本は言う。上田vs猪木、上田vs馬場というのは、単なる日本人同士の闘いではない。彼らの新人時代から続く因縁のかたちだったのだ。

馬場と猪木の陰に隠れた地味な新人レスラー時代

上田は、1960年に大相撲から力道山の日本プロレスに入門。馬場、猪木も同年プロレス入りしており、ほぼ同期生だった。しかし、2メートルを超える巨体と元・巨人軍のピッチャーという金看板を持つ馬場と、力道山がブラジルから直々にスカウトした猪木は、入門直後からスター候補生であり、上田とは初めから大きな格差があった。

そんな境遇でも師・力道山に心酔し、元来真面目な上田は黙々と練習に取り組み、特に関節を極める“セメント”の技術習得に傾倒。その実力は、若手だけで行なわれたガチンコのトーナメント『関西の牙』(63年)と、『三菱杯若手トーナメント』(64年)を連覇するほどだった。

しかし、リング上での表情が乏しく、闘いぶり自体あまりにも地味な上田の試合は、観客が寝てしまうこともしばしばだったという。上田馬之助自伝『金狼の遺言』の共著者・トシ倉森は、若手時代の上田をこう語る。

「日本プロレス時代は、本人も認めていますが、本当に地味なレスラーでした。だからこそ、セメント(ガチンコ)の実力はピカイチながら、馬場さん、猪木さんの陰にずっと隠れていたんです」

ただ、意外にも若手時代、上田と猪木の仲は悪くなかったという。

「猪木さんも上田さん同様、“レスラーはセメントで強くなくてはならない”という考えの持ち主だったじゃないですか。なので、道場で共に切磋琢磨する仲間。“寛ちゃん”“上ちゃん”と呼び合う仲だったようです」

猪木自身も後年、若手時代の上田をこう評している。

「彼自身は非常に善人なんです。ただ、面白くもおかしくもない存在。俗に言うセメントでは若手の中で群を抜いて強かったけど、個性がなく、なかなか花を咲かせられない……そんな感じでした」

64年に力道山が亡くなったあと、馬場と猪木は日本プロレスの2大エースとなり、上田は中堅レスラーに。エリートと雑草、立場は違うものの、お互い団体を支える役割をしっかりと果たしていた。しかし、そんな上田と猪木、馬場の仲を引き裂く事件が起こる。俗に言う、「猪木クーデター未遂事件」だ。 

“裏切り者”と罵られたクーデター未遂事件

60年代末から日本プロレスは、馬場&猪木の「BI砲」人気で、恐ろしく儲かっていた。しかし、芳の里社長をはじめとした幹部のあまりの放漫経営と、不透明なカネの流れにより、なぜか会社は火の車という信じられない有様だった。

当然、選手は幹部に不信感を抱くようになるが、ここで立ち上がったのが猪木だ。外部の経理士を連れてきて、同期の馬場と上田に働きかけ、日プロ経理の不正を糾弾し、幹部を追放すべく動き出したのだ。

しかし、猪木のこの動きは、上田が幹部に密告したことで頓挫。猪木は「会社乗っ取りを謀った」として、71年12月、日プロを追放される。猪木と上田の因縁は、この上田による“裏切り”が発端だというのが、これまでの定説だった。しかし、真実は別のところにあったという。

「上田さんは、それこそ遺言のように、あのときの真実を明らかにしたいと言っていました。自伝にも書きましたが、経理不正を糾弾しようとした直前、上田さんは幹部の遠藤幸吉さんに呼び出され、『君たちの動きは、すべてわかってるんだ』と逆に糾弾されたそうです。

なぜ、秘密の計画が漏れたのか……遠藤さんの言葉に上田さんは言葉を失いました。密告者は馬場さんだったんです。なぜ馬場さんが裏切ったのか、その真意はわかりませんが、上田さん曰く、『クーデター成功後、猪木さんが実権を握ることを警戒したからではないか』と言っていました。

とにかく、幹部追放計画は事前に知られることとなり、上田さんは遠藤さんに、芳の里社長に直接謝罪し、さらに若手選手全員に“猪木のクーデター計画”を説明するよう命じられたそうです。上田さんは口下手だし、言い訳をするタイプではないので、こうして長らく裏切り者に仕立て上げられていたんですよ」

この一件によって猪木と上田は完全に決裂。また、真相を知る上田と馬場の仲も決裂した。上田と猪木、馬場の因縁の原点は、ここにあったのだ。