アメリカで“金狼”に変身。そして猪木、馬場へ挑戦状

この後、プロレスの歴史は大きく動き出す。猪木は日プロを追放された直後、72年1月に新日本プロレスを設立。その半年後、馬場も日プロ幹部に愛想を尽かし、日本テレビ全面バックアップのもと全日本プロレスを旗揚げ。残された上田は、力道山が創った日プロを最後まで守ると誓うも、大スターを失った日プロは73年4月、あっけなく崩壊してしまうのだ。

結局、日プロの残党選手たちは全日本に引き取られるかたちとなるが、ここで上田は冷遇される。

「全日本と日プロは、当初“対等合併”という話だったようですが、事実上の吸収合併でした。上田さんも全日本では前座ばかりで、飼い殺しにされ、悶々とした日々を送っていた。この馬場さんの非情なマッチメイクで、上田さんは全日本に見切りをつけ、海外に活路を見出したんです。『このときの屈辱が、俺にとってそのくらいのエネルギーになった』と、のちに上田さんは語っていました」

団体という後ろ盾を失い、単身アメリカで生きていかなくてはいかなくなった上田。しかし、この背水の陣で上田馬之助は覚醒する。

「上田さんは渡米後、テネシーやオクラホマ、ルイジアナなど、反日感情の強い地区でヒールとして転戦。その間、感情表現に乏しいと言われた上田さんは、毎日、鏡を見て“ヒールの表情”を作ることを勉強したそうです。そういった努力もあって、日本では観客がシーンとしていたのが、アメリカではものすごいヒートを買うようになった。そこで『俺のスタイルはこれだ』と、自分なりに納得するものを得たようですね。

日本での地味な実力者ではなく、悪くてズルい“上田馬之助”に生まれ変わった。地味なイメージを払拭するため、髪をまだらに染め始めたのもこの頃ですよ」

こうして“まだら狼”に変身した上田は、76年に入ると日本への逆上陸を決意し、全日本・新日本・国際、3団体のエースに、それぞれ挑戦状を送りつけた。上田のこの行動の真意を、ターザン山本はこう説明する。

「上田のアイデンティティは、『自分は力道山の弟子なんだ』というところにあったんです。力道山が創った日プロの最期を看取った上田にとって、馬場、猪木がそれぞれ勝手に作った団体でマット界を支配していたことが気に入らない。俺こそが力道山の弟子なんだ。フリーの俺にとって、全日本も新日本も関係ない、万年前座だった人間の意地を見せてやる、ということですよ。

しかし、上田の挑戦表明は案の定、馬場と猪木には黙殺されるんです。上田ごときが何を言っているのか。横綱に幕下が何を言っているのか、とね。でも、経営的に行き詰まっていた国際プロレスだけは、上田の挑戦を受け入れたんです」

シンと凶悪コンビ結成しヒールとしてブレイク

上田は76年5月から国際プロレスに参戦。これまでの常識を覆す日本人ヒールとして強烈なインパクトを残し、6月11日にはラッシャー木村からIWA世界王座も奪取した。

しかし、上田の真の標的は猪木と馬場だ。その後も国際での実績をもとに、二人に対する執拗な挑戦表明を繰り返し、77年1月、ついに上田は新日本プロレスに参戦を果たす。そして、“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンと悪の合体をすることで、大ブレイクするのだ。

またこの合体は、上田のブレイクだけでなく、シンをトップヒールとして再生する効果もあった。シンの73年から続いた猪木との抗争は一応の決着をみており、この頃は半ば闘いのテーマを失っていたが、上田と組むことで、まず1月に坂口&ストロング小林から北米タッグを奪取。

さらに4月には王者として、猪木&坂口の“復活・黄金タッグ”の挑戦をも退けた。シンはここからヒールとして、さらに本領を発揮していくが、その力を引き出したのが上田だった。

「上田さんはタッグ結成後、シンを前面に出して、自分は女房役に徹したんです。例えば、肩を組んで入場するのも、シンがお客さんをケガさせたりしないよう、上田さんが体を張ってコントロールするため。シンもプロのヒールで、会場に入ると身も心も“狂える虎”になりきりますから、以前は客席にいたヤクザに殴りかかって、問題になるなんてこともあったんですよ(笑)。でも、上田さんがいることで、シンは目一杯、暴れることができるようになったんです。

上田さんはリングを降りてからも、常にシンと行動を共にしてサポートしていました。だから、シンも上田さんには感謝していましたね。『ウエダサンと俺は異母兄弟のようなものだ。彼のようなパートナーは、世界中探してもいない』と言っていましたから」

シンと上田のタッグは、81年からは全日本にも参戦。83年7月には馬場&鶴田組からインタータッグ王座も奪取している。上田はシングルでも、78年には日本武道館で猪木と日本初のネール(釘板)デスマッチで対戦。83年3月には馬場とのシングルマッチも実現した。

▲ヒールに徹したからこそ上田の対戦相手も光ったのだ

結果はどちらも負けだが、日頃から「自分のライバルは対戦相手ではなく、お客様だ」とうそぶく上田にとって、それは関係ない。前座扱いされ続けた男が、猪木、馬場と大観衆の前でメインイベントを張ることにこそ意味があったのだ。

「シンと上田さんは、新日本でも全日本でもドル箱だったんですよ。地方の観客動員力が弱いところでも、シン&上田組が参戦するシリーズは必ず満員になったんですね。レスラーの真の実力とは、観客動員力ですから。各団体で満員を記録したのは、格下扱いされた、上田さんなりのリベンジだと思います。上田さんは、国際、新日、全日の3団体を満員にさせたことを誇りにしていましたね」

また、上田はリングを降りてからも“プロレスラー”であり続ける昔気質(かたぎ)の男だった。

「上田さんは、たとえ酒を飲んでいるときでも、ヒールとしての自分のイメージを守ろうとする人でした。だから、普段からなかなか笑顔は見せなかったし、飲んでいるとき、周囲から視線を感じた瞬間、アイスペールにウィスキーを瓶一本分流し込んで、そのまま一気で飲み干してみせたりするんですよ(笑)。

さらに、飲みの席でプロレスを馬鹿にするような人がいると、ビール瓶やウィスキーの瓶を頭で割ったりしていた。こういった行動は、ビジネスを守るための力道山さんの教えですね。だから上田さんは、力道山時代のプロレスラーのすごみを守り通した人じゃないかと思いますよ」

その一方で、新日本や全日本に上がっている頃から、上田は児童養護施設や障害者施設への慰問を、積極的に行なっていたことで知られている。もちろん、当時はヒールのイメージを守るため、そういった活動についての報道はいっさいNG。上田馬之助はリアル伊達直人でもあったのだ。